風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

骨(こつ)の音ひびく

昨日の砂子屋書房の「一首鑑賞 日々のクオリアで、散る桜の花に骨の音を聴いているというような短歌が紹介されていた。それで、前に、落花に骨の音を聞くという短歌擬きを作ってブログに載せたことを思い出して探した。私は、自分の作った俳句擬きも短歌擬きもきちんと覚えていないことが多いので、随分探してしまった。それで、また少し作り直した。

老いし身を削るごとくに紅唐子咲き来るを見つ落ちゆくを見つ

べにからこべにからこ石崖の上 からからからと落ち来るが見ゆ
からからとくれなゐからこ落ち来れば老師の脆き骨の音ひびく
師の中にいつはり見つけし若き日に人の弱さを知りて哀しむ


中学の頃、私に手紙を寄こして自殺しようとした友人がいた。その友人が私に手紙を書いたというのを聞きつけた友人の担任が自殺をくい止めた。その担任は国語の教師で、日々の記録を歌日記として残していた。卒業して何人かの友人と共に遊びに行った時、歌日記を見せられた。歌日記には、自殺しようとした教え子が自分に手紙を書いて寄こしたというように詠われていた。歌日記を見ている私を、先生は窺うように見ていたが、私が何も言わなかったので、容認したと受け止めたかも知れない。「この子は大人だから大丈夫、余計なことは言わない」、と思ったかも知れない。
私は子どもの頃からそういうところがあるのだ。人の嫌らしいところを見て、心の中で軽蔑していながら、温かな眼差しで受け止めている風な態度を取ってしまう。「自分が〜自分が〜」と、まるで子どものように前に出ようとする師のことを「裸の王様」と見ている私に気づかないのかと思いながら、心の中でますます蔑みの思いを深めていく。そういう自分自身に深く深く傷つくのだ。

中学の頃から気づいていたような気がする。自分は誰も愛することなど出来はしないのだ、と。だから、愛するなどと大それた事は望まない。ただ、誰かをいつまでもいつまでも好きでいたい、と願っていた。


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おちつばきおちつばき石垣の下
           垣の下の椿先生に捧ぐ

こんな句を、(亡くなった私の俳句の)師匠が見たらなんて言うだろう。「写生が全く出来てなくて、『おちつばき』を二度も繰り返して無駄!」って言われるだろうか?