風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「楕円の焦点は二つ」ーフロマートカと、『パンセ』のパスカル

私が属している教派の8月の月報に、もう退職した牧師の本の紹介が掲載された。パスカルの『パンセ』である。これを書いたのは私の師にあたる人なので、就職浪人中に読みかけて働き始めてから中断したまま持っていた『パンセ』を、下巻から読もうと思い、取り出してきた。もっとも、紹介されていたのはルイ・ラフュマ版による田辺保訳ということで、私が持っているのは新潮文庫の津田穣訳と書かれているものなのだが・・。
ところが、下巻の1ページを開くなり、心を捉えられてしまって先になかなか進めないでいる。というのも、書かれていることが「フロマートカが言っていることと同じだ!」と思ったからなのだ。やはり真理を探究する思索というのは、同じようなところへ向かうものなのだろうか。
フロマートカというのは、夫が神学生の頃に、もう亡くなられた大先輩にあたる牧師からある時教えられた神学者なのだが、その牧師がアメリカに留学していた時に師事していた神学者がフロマートカだったのだ。フロマートカは、「楕円に焦点が二つあるように、キリスト教の真理にも相容れない二つの真理が常に共存する」というようなことを言っていたという。

以下、フロマートカ=著『神学入門』(新教出版社より引用。

 義認と聖化の問題。義認とは、私たちは正しいと宣言されているが、質的にそれに見合っていないことを意味する。私たちは常に罪人(semper peccatores)であるが、キリストの義(ただ)しさのためには私たちも正しくなる希望を持ってよいのである。…。神が自ら私たちにウェディングドレスを着せるのである。ここで疑問が生じる。…。義認と聖化の間の緊張は、楕円がよく表現している。片方の焦点なくしてもう片方の焦点を理解することはできないのである。ふたつの焦点、「然り」と「否」ー神学的弁証法の意味するところは、どれだけ概念を用いたところで私たちは真理と現実に近づくことができるだけである、ということである。(フロマートカ=著『神学入門』(新教出版社)より)
「主は救いの衣をわたしに着せ恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ花嫁のように宝石で飾ってくださる」(イザヤ書61:10)

そして、『パンセ』の下巻の最初にはどういったことが書かれているかというと・・。

以下、パスカル=著『パンセ』より引用。

五五六 …。キリスト教は二つの点で成り立っているのである。…。またこの二つのものの目印を与えられていることは、ひとしく神の慈愛による。
 しかるに彼らは、これら二つの点のうち一方の点の存在を結論せしむべきことがらを理由にとって他の点を存在しないと結論する。
(中略)
 ところで彼らはこの基礎の上にキリスト教誹謗の足場を組むのである。キリスト教を誤解しているからである。キリスト教は偉大であり全能であり永遠であるとせられる一人の神を崇めるということだけにおいて成り立っている、と彼らは考える。これはまさに理神教である。そうしてこの理神教は、これと全然反対のものである無神教とほとんど同じく、キリスト教には縁遠いものだ。
(中略)
 …。キリスト教はもっぱら贖主(あがないぬし)の神秘に成り立つのであり、この贖主はその身のうちに人間的本性と神的本性とこの二つのものを結合しておられ、人間を罪の汚れから引き戻してその神的性格における神に復帰させて下さったのである。
 従ってキリスト教は人々にこれら二つの真理を同時に教えてくれる。すなわち人々の結ばれる資格を持つところの一人の神のあること、その結ばれる資格を失わしめるところの本性の堕落のあることを、教えてくれる。これらの点を二つながら知ることは人々にとってひとしく大切である。自己のみじめさを知らずして神を知ることも、このみじめさを医したもう贖主を知らずして自己のみじめさを知ることも、人々にとってひとしく危険である。
(中略)
 このことに基づいて世界を吟味せられよ。そうしてすべてのものがこの宗教のこの二つの主要点の確立を志していないかどうかを見られるがよい。人々が迷うのは、これらの二つの点のうちいずれか一方しか見ないからであるにほかならない。
(中略)
五六〇 …。
 …。我々の知らなければならぬ大切なことはただ、我々がみじめであり、堕落してい、神から離れている、がイエス・キリストによって贖われたということである。
                         (パスカル=著『パンセ』(新潮文庫)より)

ね、似てるでしょう!

確かに聖書の中には、こちらで言っていることと、あちらで語られていることが相容れないと思う事柄が多くあるように思う。その相容れない二つの事柄がイエス・キリストにおいて完全な形で成り立っているのである。イエス・キリストは完全に人となってこの世に来られた。しかし、イエス・キリストはこの世界の創造の初めから神であられたお方なのである。

聖霊なる神についても同じように言うことができると思われる。聖霊なる神は、キリストが十字架上に死なれ、復活して、天へと帰られた後に私たちに送られた、ということができる。と同時に、聖霊なる神は、天地創造の初めから現臨しておられる、ということもできる。

わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。(ルカ24:49)

そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。(使徒行伝1:4,5)

助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。(ヨハネ福音書14:26)

はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(創世記1:1~3)