風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

『キャベツ炒めに捧ぐ』井上荒野=作(ハルキ文庫)


● 「おいしいを読もう ! 食の本の読書会」で集まった本たち

      マルコ1:6
荒野より吾を呼ばはる声聞こゆイナゴを食する者の声なり


新聞を取り置いて、生ゴミの袋などの下に敷くようにしている。それで、井上荒野の『キャベツ炒めに捧ぐ』を紹介した古い「今週の本棚」の記事が目についた。

実は、彼女たちは食べることと同様、飲むことが大好きで、つい羽目をはずしてしまうのだ。江子はさらにけたたましく陽気になり、天の邪鬼の麻津子はなんと泣き上戸にになり、いちばんエレガントに見える郁子は茶碗を叩きながら、自作の歌を高唱するしまつ。
 緻密に素材を選び、それぞれ蘊蓄を傾けながら惣菜を作る穏やかな日常と、魔女の饗宴さながらの壮絶な酩酊のとき。この両様の姿を描くことによって、彼女たちが担いきれないほどの重荷を背負いながら、それに押しつぶされることなく、美味しいものを作り、もりもり食べて、元気に生きてゆく姿が臨場感をもって浮き彫りにされる(井波律子評 毎日新聞『今週の本棚』より)

この紹介文を読んで、三波春夫の「チャンチキおけさ」を思い浮かべた。「月が〜わびしい路地裏の〜屋台の酒のほろ苦さ。知らぬ同士が小皿叩いてチャンチキおけさ。おけさ切なや、やるせなや」小学生の頃、三波春夫が大好きだったのだ(笑)。


だいぶん時間が経っていたので文庫本になって出ていた。それで、もちろん買った。「彼女たちが担いきれないほどの重荷を背負」っていると書かれていたのだが、中でも「茶碗を叩きながら、自作の歌を高唱する」郁子の重荷は本当に重い。


 でもーと郁子は思う。わたしは毎年芋版を作り、夫はそれで年賀状を出した。でも、あのひとが気づいていない、ということはなかっただろう。わたしがあのひとを憎んでいたことを。
(中略)
 草は風邪で死んだのだった。肺炎を起こしているという診断が出てからあっという間のことだった。だから言ったじゃない、という自分の声が郁子の頭の中で、遠くで聞こえる音楽みたいに低く微かに、でもずっと響いていた。だから言ったじゃない、今すぐ病院に連れていったほうがいいわって言ったじゃない、それなのにあなたは、ただの風邪だよ、と取り合わなかったのよ。明日の朝いちばんに連れていけば大丈夫だって請け合ったのよ。医者でもないのに。手遅れになったのはあなたのせいよ。
 その声は、郁子の唇から実際に発されることはなかった。だがーたぶんだからこそー声はそれからずっと郁子の頭の中で、壊れたラジオみたいに低く鳴り続けていたのだった。俊介と暮らした三十数年間ずっと。そうしてそのことを、俊介も知っていただろう、と郁子は思う。
(中略)
 …。そもそも正常といったって、三十五年前に息子を亡くしてからの自分はずっと異常だったともいえる。そうして異常は異常なりに、どうにか動き続けていた自分の中の歯車が、俊介の死によってそれまでとは違ったへんな動きかたをするようになり、そして一年と少しが経って、また何か動きかたを変えた。そういうことなのかもしれない。
 いずれにしても、動き続けているからこそ変わりもするわけよね。そう考えるとちょっと愉快な気持ちにもなってきた。鼻歌を歌いながら小芋を洗う。今夜はキュウリのほかに、茄子と小海老を入れた冷やしのっぺい汁。それにトマトと玉子でも炒めようかと考える。(『キャベツ炒めに捧ぐ』より)

引用して書いていても胸が苦しくなるほどだ。けれど、この本を読み終える頃には、読み手の胸の中に温かい何かが芽生え始めていると思える。


『キャベツ炒めに捧ぐ』の「キャベツ炒め」は主人公の江子に関連した料理だ。結婚式を終えた夜に夫が作ってくれた料理なのだった。

「ああ、そうねえ。キャベツ炒め、わたしも大好き。バターで炒めてお醤油じゃっとかけて」
 南瓜を切っていた郁子の声がすぐに合わさる。
「あたしは断然、ソースがいいな」
「江子さんは?お醤油派?ソース派?」
 郁子に聞かれ、江子はキャベツの葉を茹でている鍋から顔を上げた。
「あたしは、塩」
 あーそうよね塩もいいわよねえ。キャベツの甘みが引き立つもんね。二人の声を聞きながら、江子はその味を思い出した。
(中略)
 白山はまずバターでニンニクをゆっくりと炒めて、じゅうぶんに香りが立つと、火力を強めてちぎったキャベツを放り込んだ。味つけは塩だけで、黒胡椒をたっぷりと挽いた。さあどうぞ、奥さま。キャベツ炒めとトーストとコーヒー。白山の妻となってはじめての食事がそれだったのだ。(『キャベツ炒めに捧ぐ』)

私もキャベツを炒めるときは塩だけが一番だと思うのだが、このキャベツ炒めはニンニクとかバターとか余計なものが入りすぎだな、と思った。それに強火じゃなく弱火でじっくり炒める方が甘みが出て美味しいと思う。

けれど、江子の場合ももちろんそのままずっと幸せな結婚生活が続いたのではない。

 ムクドリたちが飛び立ってから、江子は庭に降りた。この家の庭ももちろん白山が整えてくれた。別れる間際にもかかわらず、熱心に、江子が気に入るように心を砕いてくれた。白山というのはそういう男なのだ。ーまったくいやになることに。
(中略)
 一週間で秋はいちだんと深まった。
 朝起きたときの日差しの色に江子はそれを感じた。アナベルの花は終わって、かわりにシュウメイギクが咲きはじめた。白山はーたぶん彼自身の美意識とはべつに、どの季節にもさびしくならない庭を江子のために作ってくれたのだと思う。(『キャベツ炒めに捧ぐ』)

麻津子の作ったお花見弁当への感想を語った旬の言葉が、また、人生の機微を見事に言い表していると思う。ー「きれいだし旨いけど。ほんとはもうちょっと豆の味がしたほうが旨いよね。豆は色が悪くて、潰れたりしててもいいからさ」


料理本は、今ではもっぱら作り方を知るためというより写真を見るために買うことの方が多い。小説でも食べることに関連した本は大好きで文庫で買って読んだりするが、この本はそれ以上のものだった。

娘が2,3歳の頃、礼拝が終わって、他所から来てくださった牧師先生のためにお昼の用意をしている私の所に来て、「○○ちゃんが叩いてきた」と訴えたことがあった。ちょうどカボチャをマッシュしたものを丸めていたところだったので、それを娘の口の中に放り込んでやると、みるみる顔がほころんで、「遊んでくる!」と元気に宣言して、また敵陣へと乗り込んで行ったということがあった。

「食べる」という事柄には、本当に深いものがあると思わされる。『太平洋食堂』のことも、また思い返した。


 料理ができてよかった、と江子はしみじみと思う。できるようになったのはーそもそも料理というものに関心を持つようになったのはー白山のおかげだけれど。あるいは、食べることが好きでよかった、と言うべきかもしれない。結局のところ、生きものでよかった、ということに違いない。どんなに悲しくても辛くても、食べなければ生きていけないから。何かを食べるために動き出さなければならないから。(井上荒野=作『キャベツ炒めに捧ぐ』(ハルキ文庫)より) 


彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。(ルカ福音書24:41~43)


      イザヤ書40:3~5
荒野へと吾を導く声のあり神にまみゆる荒野の果てに