引っ越しの荷物の中から夏目漱石の短編集を見つけ出して『文鳥』を読んだ。
ここには、自分への怒りが描かれている、と思った。
弄んで死なせてしまった自分への怒りが。
十月早稲田に移る。伽藍のような書斎にただ一人、片附けた顔を頬杖で支えていると、三重吉が来て、鳥を御飼いなさいという。飼ってもいいと答えた。しかし念のためだから、何を飼うのかねと聞いたら、文鳥ですという返事であった。
(略)
昔し美しい女を知っていた。この女が机に凭れて何か考えている所を、後から、そっと行って、紫の帯上げの房になった先を、長く垂らして、頸筋の細いあたりを、上から撫で廻したら、女はものう気に後を向いた。その時女の眉は心持八の字に寄っていた。それで眼尻と口元には笑が萌していた。同時に恰好の好い頸を肩まですくめていた。文鳥が自分を見た時、自分はふとこの女の事を思い出した。この女は今嫁に行った。自分が紫の帯上げでいたずらしたのは縁談の極った二、三日後である。(『文鳥』)
水は丁度易え立てであった。文鳥は軽い足を水入の真中に…。(略)それでも文鳥は欣然として行水を使っている。
自分は急に易籠を取って来た。そうして文鳥をこの方へ移した。それから如露を持って風呂場へ行って、水道の水を汲んで、籠の上からさあさあと掛けてやった。如露の水が尽きる頃には白い羽根から落ちる水が珠になって転がった。文鳥は絶えず眼をぱちぱちさせていた。
昔紫の帯上でいたずらをした女が、座敷で仕事をしていた時、裏二階から懐中鏡で女の顔へ春の光線を反射させて楽しんだ事がある。女は薄紅くなった頬を上げて、繊い手を額の前に翳しながら、不思議そうに瞬をした。この女とこの文鳥とは恐らく同じ心持だろう。(『文鳥』)
自分は手を開けたまま、しばらく死んだ鳥を見詰めていた。それから、そっと座布団の上に卸した。そうして、烈しく手を鳴らした。
十六になる小女が、はいといって敷居際に手をつかえる。(略)自分は、餌を遣らないから、とうとう死んでしまったといいながら、下女の顔をにらめつけた。下女はそれでも黙っている。
自分は机の方へ向き直った。そうして三重吉へ端書をかいた。「家人が餌を遣らないものだから、文鳥はとうとう死んでしまった。たのみもせぬものを籠へ入れて、しかも餌を遣る義務さえ尽さないのは残酷の至りだ」という文句であった。
(略)
午後三重吉から返事が来た。文鳥は可愛想な事を致しましたとあるばかりで家人が悪いとも残酷だとも一向書いてなかった。(『文鳥』)
漱石は自分自身を赦せなかった人なのだ、と思った。
三重吉への端書に「たのみもせぬものを籠へ入れて」と書いている。文鳥は籠に入れられて愛玩されることなど願ってはいなかっただろう。
これは三重吉への怒りでもある。しかし、「鳥を御飼いなさい」と言った三重吉に、「飼ってもいい」と答えたのは漱石なのだった。
それは女を嫁がせた(籠の中に入れた)家族への怒りでもあるだろう。しかし、それを止めることが出来なかった漱石自身への怒りでもあるのだ。
三重吉からの返事には「文鳥は可愛想な事を致しました」としか書かれていなかった、とある。
「罪」というものに思い致さない三重吉の鈍感さに、漱石は驚きながらも慰めを得ていたのではないか、とも思える。
しかし、その後の鈴木三重吉の生き方を見ていて、漱石はどう思っただろうか。
漱石は、実際には犯さなかった自分の罪を、計らずもこの時、三重吉の中にすでに見ていたことに驚かなかっただろうか?
夏目漱石という人は、世の中を眺めながら、「罪」を眺めながら、赦しの言葉を聞きたがっていた人なのではないかと、思う。
こどもさんびか54番
3 ゴルゴタの十字架の上で罪人を招かれた
救いの御言葉をわたしにも聞かせてください。
日本キリスト教会 新宮教会: 5月22日 ヨハネによる福音書9章1−12節「キリストが出会って下さる」説教 https://t.co/rBkWOi3Xkn
— 猫祐物語 (@syodainekosuke) 2022年6月5日
主イエスに従う私たちも、理不尽な出来事の多いこの世界で、苦難に直面し嘆き悲しむ人々にイエス・キリストの救いの福音を伝えて行きたいと思うのであります。(抜粋)
myrtus77.hatenablog.comそしてこの神の創造の業は命の創造であり、生きる秩序の創造です。
(略)
神は命を創り、そしてその命を救うために罪を裁き滅ぼす方です。その神がおられる、救いの御業をなしておられる、この神の許にこそ命と未来がある、これを証しするためにわたしたちは召されているのです。
神は、わたしを信じて生きて欲しい、わたしと共に生きて欲しい、あなたがそうすることはわたしの救いの御業にとって大切なんだと、語りかけておられるのです。
赦しの言葉を聞きたがっていたのは、この私だ。
そうして私は、夫の説教を聞きつづけてきた。