風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「命を創り、命を救うために罪を裁き滅ぼす方」(ゼパニヤ書1:1〜6)

ユダの王アモンの子ヨシヤの世に、ゼパニヤに臨んだ主の言葉。ゼパニヤはクシの子、クシはゲダリヤの子、ゲダリヤはアマリヤの子、アマリヤはヒゼキヤの子である。
主は言われる、「わたしは地のおもてからすべてのものを一掃する」。
主は言われる、「わたしは人も獣も一掃し、空の鳥、海の魚をも一掃する。わたしは悪人を倒す。わたしは地のおもてから人を絶ち滅ぼす」。「わたしはユダとエルサレムのすべての住民との上に手を伸べる。わたしはこの所からバアルの残党と、偶像の祭司の名とを断つ。また屋上で天の万象を拝む者、主に誓いを立てて拝みながら、またミルコムをさして誓う者、主にそむいて従わない者、主を求めず、主を尋ねない者を断つ」。(ゼパニヤ書1:1~6)


これはおよそ今から2600年ほど前の時代の言葉です。この頃南ユダ王国は宗教・文化において北の大国アッシリアの影響を受けた時代でした。1節にゼパニヤの系図がありますが、その系図は最後ヒゼキヤになります。ヨシヤ王の曾祖父もヒゼキヤで、おそらくは共にヒゼキヤの子孫と思われます。かつて神の民を整えようとしたヒゼキヤの子孫であるヨシヤとゼパニヤが、再び神の言葉によって民を整えようとしたのだということを、この1節の系図は示しているのだと思います。二人は、真の創り主であり真の救い主である唯一の神と共に生きるということを回復しようとしたのです。

アッシリアの影響が大きかったこの時代、大国との交易が盛んになり、経済活動は発展し、豊かさは増していきました。そして豊かさが増していくときに、その大国で信じられている宗教や文化に倣おうとする動きが出てきました。アッシリアの宗教や文化を受け入れることが進んでいきました。それが4〜5節に出てくるバアルという神や、天の万象を拝むということや、ミルコムを指して誓うということでした。これらが次々とイスラエルの民の間に広がり受け入れられていったわけです。

1節に「ゼパニヤに臨んだ主の言葉」とあるように、民を改めるのは神の御旨でした。ゼパニヤはその神の御旨を民に伝えなくてはなりません。それは厳しい裁きの言葉でした。3節では強烈な言葉が語られます。ここで語られる光景というのは創造の業が巻き戻されていくような光景です。人が一掃され、獣が一掃され、空の鳥が一掃され、海の魚も一掃されて、神が創造をお始めになるその前へ前へと戻っていく光景が描き出されます。当然この言葉で人々が思い浮かべることは、神が天地をお造りになられたということです。そしてこの神の創造の業は命の創造であり、生きる秩序の創造です。神が言葉を発せられる前は命無き混沌でした。神はそこに命が育まれる世界をお造りになっていかれました。それが失われていくということが告げられています。創造の前の混沌へと巻き戻されていく。つまり神は、「今の生き方が、命を無にしてしまうもの、神が祝福をもって良かったといって積み重ねてこられた、命の創造の御業が失われていく生き方だと気づかなければならない」と言っておられるのです。

創世記1:27~28にこう書かれています。「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち神の形に創造し男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた。産めよ増えよ地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と空の鳥と、また地に動く全ての生き物とを治めよ。」神の御業をなす者として人は神の形に創造されたのです。神と共に生き、神の御心を知って御業に仕え、全ての創られた者が神の祝福に預かるようにと、務めは与えられたのです。そのために神は、わたしの言葉を聞き、わたしの御心をなすようにと神の民に求めておられるのです。ところが民は、その務めを放棄して、自分にとって良いと思われるものを受け入れていってしまいました。

預言者たちは偶像礼拝と闘いました。バアル(4節)とは、主人とか夫というような意味の言葉です。これは土地や家畜の生産力を支配する神で、特に農耕の民の間に広く崇拝されていました。イスラエルもカナンの地に定着して農耕が生活の中に入ってきたことによって、その信仰が入って来ました。特に北イスラエル王国の第7代の王アハブがツロの王の娘であるイゼベルを妻に迎えてバアル礼拝を推進するようになってから広く浸透していきました。天の万象を拝む(5節)という行為も同様にアッシリア人やカナンの地に住む人々によって礼拝されていたものです。農耕にとって天の運行、季節の移り変わりは大切なものです。そうして天の万象が拝まれました。ミルコムという名前も出て来ますが、これはアンモン人の神としてミルコムと言われていますが、これもまたバアルの俗称だと言われています。周囲の諸民族との関わりの中でこういうものが知られ入ってきました。そして自分たちが大事にしなければいけないものが薄れていってしまいました。

神の民は神の御業に召されています。わたしたちが信仰をもって生きるということは、それ自体神の救いの御業に仕えることです。わたしの命を造り、罪あってなお愛してくださる、わたしを死と滅びから救い出し、共に生きてくださるのはこの神だと信じて生きる、それは神の救いの御業に仕えていることなのです。それほど立派な信仰は持ってないわたしの毎日なんて、平凡な毎日の繰り返しで大したことは何もしていない、そう思えるかも知れません。けれどそうではありません。神はわたしたちをお用いになります。わたしと共に生きる務めを担ってほしいと神は願っておられます。ですから、わたしのきょうこの日の歩みをすべて主の手に委ね、主と共に生きるとき、神の救いの御業がそこで成されているのです。それは、その務めを放棄してしまったらその者たちは絶たれると言われるくらい神にとって大切なことなのです。この世から見れば、どの神を信じて生きていてもそんなに毎日の生活が変わるなんてことがないように見えるかもしれません。しかし、神がこの世界を、お造りになって良かったと喜ばれた世界を、そして独り子を遣わすほどに愛しておられる世界を救うためには、わたしたちが真の神を信じて生きるということはとても大切な事柄なのです。

預言者が語ったとき聴く者はわずかでした。およそ50年後、南ユダ王国新バビロニア帝国によって滅ぼされます。多くの民を捕虜としてバビロニアに連れ帰るというバビロン捕囚が起こりました。その滅びを経験して民は気づいていくのです。預言者の語った言葉は本当であったと。

神がわたしたちを愛し抜いてくださることは、わたしたちが神を侮っていいということではありません。わたしたちは神の大いなる救いの中にあるからこそ、希望と平安の内に感謝をして生きることができるのです。その幸いのために、神はわたしたちに対して真実でありつづけてくださいます。神を自分の願いを聞いてくれる召使いのように思い違いをしてはなりません。神は便利で都合の良い存在ではないのです。神は命を創り、そしてその命を救うために罪を裁き滅ぼす方です。その神がおられる、救いの御業をなしておられる、この神の許にこそ命と未来がある、これを証しするためにわたしたちは召されているのです。神は、わたしを信じて生きて欲しい、わたしと共に生きて欲しい、あなたがそうすることはわたしの救いの御業にとって大切なんだと、語りかけておられるのです。

様々な事件や災害が起こり、いろいろな問題が立ち現れてきます。人類はこれだけ文明の力を手に入れ、知恵は広がり深まっているのに、人間の根本的な問題は何一つ解決してはいません。わたしたちは、ただ神の御業によってのみこの罪から救い出され、神の子として喜び生きるものとされるのです。わたしたち一人一人の歩みも、この神の御業の中で用いられているのだと深く知り、神に信頼し依り頼みつつ歩みゆくことが求められているのではないでしょうか。



保護法違反裁判:警視庁公文書「秘密非開示では立証困難」特定秘密保護法が司法制度との間に矛盾を抱えたまま成立した実体が浮かび上がった。(抜粋引用)

上記記事のすぐ横に、特定秘密保護法の廃止を求める10代の若者の「秘密はいやだ!Uー20デモ」が26日都内であった、と写真つきで載っていた。毎週金曜日の首相官邸前抗議で出会った若者達が企画したという。昨年の同法成立翌日、安倍晋三首相が「嵐は過ぎ去った」と述べたと聞き「もっと嵐を起こそう」と立ち上がった、と書かれている。