風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ゼパニヤ書1章7節から13節ーその日には魚の門から叫び声がおこり、・・、もろもろの丘からすさまじい響きがおこる。

主なる神の前に沈黙せよ。主の日は近づき、主はすでに犠牲を備え、その招いた者を聖別されたからである。
主の犠牲をささげる日に、「わたしはつかさたちと王の子たち、およびすべて異邦の衣服を着る者を罰する。その日にわたしはまた、すべて敷居をとび越え、暴虐と欺きとを自分の主君の家に満たす者を罰する」。
主は言われる、「その日には魚の門から叫び声がおこり、第二の町からうめき声がおこり、もろもろの丘からすさまじい響きがおこる。しっくいの家の住民よ、泣き叫べ。あきないする民は皆滅ぼされ、銀を量る者は皆断たれるからである。その時、わたしはともしびをもって、エルサレムを尋ねる。そして滓の上に凝り固まり、その心の中で『主は良いことも、悪いこともしない』と言う人々をわたしは罰する。彼らの財宝はかすめられ、彼らの家は荒れはてる。彼らは家を建てても、それに住むことができない、ぶどう畑を作っても、そのぶどう酒を飲むことができない」。(ゼパニヤ書1:7~13)

ゼパニヤは1章1節にあるように南ユダ王国の王ヨシュアの時代に預言者として活動しました。ヨシュア王が26歳の時に、神殿で申命記の巻物が発見されます。そして発見した祭司がヨシュアの前で朗読したとき、あまりに今の世と神の語る言葉が違っていたので、ヨシュア申命記に従って民を整え国を整えようと決意しました。おそらくゼパニヤは、ヨシュアが本格的な宗教改革を始める前の時代、ヨシュアが成すべき改革のために神の言葉を語っていたのではないかと思われます。
そのような改革を必要とするほど人々が神から離れていた時代です。この箇所で、ゼパニヤが語りかけた人たちがどうであったのかを示す言葉が出てきます。12節「その心の中で主は良いことも悪いこともしないと言う人々をわたしは罰する」という言葉が出てきます。多くの人たちが宗教的な儀式は行っていました。けれど、神は良いことも悪いこともなさらない。代々続いてきたことだから、習慣で自分たちもしているけれども、主は良いことも悪いこともなさらない。つまり、神を信じようが信じまいが人生はそう変わらない。そういう思いが人々の中に広がっていきました。そして様々な神々、豊かさなど自分たちの願いに応えてくれる神々が拝まれるようになっていったのです。

そのような中でゼパニヤは語ります。時代の流れの中でこの世の事柄を受け入れてしまっている人々に対してゼパニヤは語ります。7節「主なる神の前に沈黙せよ」とは、神の前に進み出て、神の言葉を聴きなさいということです。なぜ聴かねばならないのか。それは今、主の日が近づき、主はすでに犠牲を備え、その招いた物を聖別されたからです。犠牲とは南ユダ王国。招いた物とは南ユダ王国を滅ぼす新バビロニア帝国です。神はご自身の裁きを行うため、大国バビロニアを聖別し用いられます。あなた方は神の民だと言っているが、神と共に生きようとしない。都合よく神の名を出しては自分を誇るけれど、自分の思うがままに生きている。そのような生き方を神が裁かれないと思っているのか。神の御声を聴きなさい。

8節「わたしは司たちと王の子たち、及び全ての異邦の服を着る者を罰する。その日にわたしはまた全ての敷居を飛び越え、暴虐と欺きとを自分の主君の家に満たす者を罰する。」異邦の衣服を着るというのは偶像礼拝をするために、その外国の神々に仕える人たちの身なりを取り入れること。今もファッションで、クリスチャンでなくても十字架のネックレスを身につけたりします。そういうことは昔からあったわけです。そんな風に異邦の服を着る者、自分に都合良く願いを叶えてくれる神々のもとに行く人たちを罰する。全て敷居を飛び越えとありますが、敷居というのは神殿の境のことです。つまり、神を礼拝して生きることを飛び越えて、神の御心とは全く違うこの世の力に寄り頼み、その力をふるうことによって自分を豊かにする、自分の思い通りにする者たちを罰すると語っているのです。

10節「その日には魚の門から叫び声が起こり、第二の町からうめき声が起こり、もろもろの丘からすさまじい響きが起こる。漆喰の家の住民よ泣き叫べ、商いする民は皆滅ぼされ、金を測るものは皆絶たれるからである」これはエルサレム新バビロニアによって破壊されていく様を描いています。魚の門というのはガリラヤ湖ヨルダン川でとれた魚の市が開かれる門の名前です。神が与えて下さった様々な恵み、美味しい食べ物、そういう物が売り買いされて活気に満ち溢れていたところから叫び声があがって、自分たちの生活が、この平穏で楽しい生活がずっと続いていくと思っていたのに突如破壊されていく。そういう風に、滅びへ滅びへと至るのです。

その裁きの時に、12節「わたしは灯を持ってエルサレムを訪ねる。そして澱の上に凝り固ま」る。この澱の上に凝り固まりというぶどう酒を作る時の表現ですけれども、これは怠惰であることを表す表現です。神の御心を求めることに対する怠惰さ、そして心の中で主は良いことも悪いこともなさらない、わたしたちがどう生きようと神はそんなことに関心を持ってはいない、そう言う人々をわたしは罰する、というのです。

13節「彼らの財宝はかすめられ、彼らの家は枯れ果てる、彼らの家は建ててもそれに住むことができない、ぶどう畑を作ってもそのぶどう酒を飲むことができない。」神の恵み、神の守りによって成り立っていた生活が崩れていってしまいます。目に見えない神を信じ、神に従って生きるということが一体何を支え、どんな生き方どんな生活を築き上げてきたのか、それに気づくことなくその大事なものを手放してしまう。そしてある時、それが一気に崩れていく、その日を主の日とゼパニヤは呼ぶのです。
日々の生活を、食べることを楽しむだけ楽しんで、それである日「神はいらない」と思ってしまう。けれども、神がそれを与えていてくださったのだということに人々は気づけなくなってしまっている。その心に対して、その心を揺さ振り動かすために、ゼパニヤにはこの主の日、裁きの日の言葉が与えられたのです。
これは主の日が近づいたと言って、脅し怯えさせるためではありません。あなたたちが神を信じる、そして信じて生きるということは、あなたが思っているほど小さなことではない。神がそれを与え、神がそれを用いて、ご自身の救いの御業を成していかれる。だから、それを手放してしまったとき、滅びへと至る。罪が招く滅びへと行ってしまうことに、あなたたちは気づかなければならない。そのことをゼパニヤは語っているのです。

わたしたちも自分が信じているということ、教会に来ているということがそんなに大きなことではないと思えることがあります。神を信じても信じなくても毎日の生活は続いていく、現にそういう風に生きている人たちが自分の周りには大勢いる。信じることになんの意味があるのだろうか、そう思えてならないときがあるかもしれません。けれど、あなたが信じているということは決して小さなことではない。あなたが信仰を持ったのも、あなたが神の民に加えられたのも、神の御心があってのこと。そして神は、あなたを選びあなたを導くことを通して救いの業を成しておられるのだ、とゼパニヤは語っているのです。

どれほど小さな者であっても、神が全てを御手の中に収め導き、神が全てのことを益とされます。あなたが信じて生きることをわたしは喜ぶ、あなたがわたしの言葉に従って生きることをわたしは喜び、祝福し用いる、と神はわたしたちに語りかけておられます。この世の思いにわたしたちが囚われていってしまう時に、そこから目を覚ませとゼパニヤはこの強烈な言葉をもってわたしたちに語りかけます。神の目にわたしたちは決して小さな存在ではありません。神は、「わたしの目にあなたは価高く、貴い」(イザヤ43:4)と言われます。わたしはあなたを救い、あなたと共に生きるために独り子を遣わそう、そう神は言われ、それを成してくださいました。この神の思い、御業に立たなければ、わたしたちは罪の中に呑み込まれてしまいます。この世の力が静かにわたしたちを呑み込んでいってしまうような時代の中で、神に立ち返り、神と共に生きるように、と預言者は語ったのです。