出現、とは日輪雲を破るごと神の首(かうべ)のあらはるるなり『をがたま』補遺
この短歌については「葛原妙子6」でも書いたのだが、ホセア書6章の言葉について『聴く』に載せた後に、この歌のことが思い出された。
以下にそれぞれの訳を列記してみよう。
主は曙の光のように必ず現れ(ホセア書6:3 聖書協会共同訳)
主は曙の光のように必ず現れ(新共同訳)
主はあしたの光のように必ず現れいで(口語訳)
主は暁の光のように、確かに現れ(新改訳)
主は暁のように確かに現れ(新改訳2017)
主は暁が必ず訪れるように現れ(フランシスコ会訳)
「葛原妙子6」で、私は、この歌について以下のように書いた。
出現、とは日輪雲を破るごと神の首(かうべ)のあらはるるなり『をがたま』補遺
この歌が面白いのは、「神の首が現れる如く太陽が雲を破って現れる」と詠っているのではないところだ。さらに、「太陽が雲を破って現れるように神の首が現れる」と詠っているのでもない。「出現とは神の首が現れることである。太陽が雲を破って現れるように」と詠っているのである。凄まじい断定の仕方だと思う。
あぁ、そして、神の首が現れる時、闇から光へと変わるのだ。
わたしたちの神は来られる。黙してはおられない。(詩篇50:3)
お前はこのようなことをしている。わたしが黙していると思うのか。わたしをお前に似たものと見なすのか。罪状をお前の目の前に並べてわたしはお前を責める。神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、わたしはお前を裂く。(詩編50:21〜22)http://myrtus77.hatenablog.com/entry/20120117/p3
「葛原妙子6」のここに、ホセア書の御言葉を書き加えるべきだと思った。
古い新改訳でホセア書のこの部分を書き出してみよう。
主は暁の光のように、確かに現れ、
大雨のように、私たちのところに来、
後の雨のように、地を潤される。(ホセア書6:3)
そうなのだ。神の裁きは罪からの解放を与えるのである。
しかし裁きは救いへの招きです。信じられない罪の世で生きるのではなく、神の国で信じて生きなさい、という招きなのです。ですから、裁きは決定してしまった運命ではなく、常に救いへと開かれているのです。(https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2019/08/04/213418)
神の裁きは、キリストの十字架がそうであるように、そこから救いが現れてきます。(https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2019/07/24/213613)