風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

どのような神を知るのか?(ホセア書からヨブ記、ルカによる福音書へ)

わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。(ホセア書6:6 新共同訳)

 

「神を知る」とは、どのような神を知るのか?

 

ヨブ記42章には次のような神の言葉が記されている。

主はこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、
「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。(ヨブ記42:7 口語訳)

では、ヨブは神についてどのような正しいことを述べたのだろうか。

遡る16章では、

このような時にも、見よ 天にはわたしのために証人があり
高い天にはわたしを弁護してくださる方がある。(ヨブ記16:19 新共同訳)

これは、来たるべきキリストを指し示していると聴いてきた。

ヨブは、神を、私を弁護して下さる方だ、と述べたのである。

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どのような神かと考えるとき、私はまた、ルカによる福音書16章に記されている不正な管理人のたとえを思い浮かべる。

エスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(ルカによる福音書16:1~13 新共同訳)

 

ここでは最後に、「ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」とか、「神と富とに仕えることはできない」とか教訓めいたことが語られているのだが、ここで語られているのは、主人つまり神が私たちの負債を軽くして下さる恵み深い方であるということを管理人は人々に知らしめたということなのだと思える。

私たちが神を伝える時、神様は厳しい容赦のない方だと伝えるのか、恵み深い赦しの神だと伝えるのか、どちらであるか?ということが語られているのだと思えるのである。

 

神は、私たちが神を知ることを喜ばれる。どのような神を知ることを喜ばれるのか?

ご自分の御子を差し出してまで私たちを赦してくださる愛の神であると、私たちが知ることを喜ばれるのだ。

 

 

 

   「マリヤよ」(ヨハネによる福音書20:1〜18 口語訳)   

「マリヤよ」(説教抜粋)

 イエスがマリヤの名を呼んで、復活の救いへと招かれたように、神は今も、わたしたち一人ひとりの名を呼んでおられます。罪の世に心囚われて悲しみ続けることのないように、神の救いの恵みに与るようにと、神はわたしたちの名を呼んでおられます。

 

 

 

 

    〈 聖書を読む 〉ホセア書5~6章