風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

妻とは、死に向かって夫の背中を押す者、新生へと向かわせる者(ヨブ記から考える)

昨年2月、「ヨブ記(神の考えと人の考え)ー転換点に立つ物語と、ちょこっと『カラマーゾフ』」を書いた。
その後、新共同訳のヨブ記2章9節の妻の言葉を取り上げてもう一度書きたいと思っていたのだが、夫が死にかけたので、それどころではなくなったのだった。

新共同訳では「「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」」(ヨブ記2:9)となっている。もう亡くなられたが、ここを訳した牧師は「無垢」という言葉に拘って訳されたと聞いた。「無垢」とは「(仏教語で)煩悩がないこと、さま」、「けがれのないさま」等と辞書に記されている。英語で「無垢」にあたる「innocence」には、「無罪」、「潔白」という意味が含まれているようだ。

ヨブ記の1章1節でも、新共同訳は「無垢」という言葉を用い、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」となっている。口語訳では、「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。」である。

1章5節にはヨブが息子達のためにいけにえをささげていることが記されている。この部分では口語訳も新共同訳も、これはヨブが、「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからだと記され、「罪を犯す」という言葉が遣われている。

また、サタンがヨブを試みることを許され、家畜や息子達が打たれた後の1章22節でも、「ヨブは、…罪を犯さなかった」と記されている。

ヨブ記というのは、罪を犯すことのない「義人の故なき苦しみというテーマ」(『岩波キリスト教辞典』)を持っているということである。しかし、ローマ人への手紙3章10節パウロ「義人はいない、ひとりもいない」(新共同訳では「正しい者はいない。一人もいない」)と語り、聖書(旧約)に記されていることとして、「次のように書いてある、」と前置きしている。

こういったところから私は、ヨブ記というのは、罪を犯すことなく義なる者とされていた人間が、妻によって背中を押され、自らの罪を認め、新生していく物語である、と見る。実際、妻によって「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」という言葉を投げかけられた後、ヨブは自分の生まれた日を呪い始めるのである。

自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。(ヨハネの手紙一1:8)
エスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ福音書3:3)


こんな事をまとめようと思っていたところに、ある老齢の牧師から手紙と共に「牧会書簡第六十巻」が送られて来た。その中に、ヘブル語で「知る(ヤーダー)」という意味の言葉が、「殺す」「交わり犯す」という意味をも含んでいるということが書かれてあって、非常に興味深いと思ったのだった。

それで、創世記4章1節の「アダムは妻エバを知った」の「知った」がこの言葉かどうか、夫に調べて貰った。やはり、この言葉「ヤーダー」を遣っているということだった。
「ヨブ記(神の考えと人の考え)ー転換点に立つ物語と、ちょこっと『カラマーゾフ』」で私は、「女の愛は、根本的に「命がけ」という構造の中に組み込まれている」と書いたのだった。女は命がけで子どもを産むのである。アダムがエバを知った後、エバは身ごもってカインを産むのだ。


女は男によって知られて(殺されて)子どもを産み、男は女によって死へと背中を押されて、新生へと向かわされるのである。夫婦の関係とはそういった命がけの関係だと言える。

聖書においては、夫婦の関係が神と信徒との関係に譬えられるほど、結婚の持つ意義は大きい。それは命がけの事柄だということである。