風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「高い天にはわたしのために執り成す方がいる」—(ヨブ記から考える)

お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。(ヨブ記42:7 新共同訳)

 

口語訳や新共同訳のように「わたしについて」という訳を採るとすれば、それは以下の箇所に最も表されていると思われる。

大地よ、わたしの血を覆うな/わたしの叫びを閉じ込めるな。このような時にも、見よ/天にはわたしのために証人があり/高い天には/わたしを弁護してくださる方がある。わたしのために執り成す方、わたしの友/神を仰いでわたしの目は涙を流す。人とその友の間を裁くように/神が御自分とこの男の間を裁いてくださるように。(ヨブ記16:18~21)

 

ヨブは、神(キリスト)について「天にはわたしのために証人があり わたしを弁護してくださる方がある」と語ったのだ。

この部分を聖書協会共同訳で見ると、

大地よ、私の血を覆い隠すな。私の叫びに休む場所を与えるな。今も天に私の証人がいる。私のために証言してくれる方が高い所にいる。私の友は私を嘲るが私の目は神に向かって涙を流す。この方が神に向かって人のために人の子とその友の間に立って弁護してくれるように。(ヨブ記16:18~21)

「執り成す方(証言してくれる方)が高いところにいる」というのは変わらないが、聖書協会共同訳の方が、「この方が神に向かって人のために」と、「この方が」「神に向かって」という表現が入っているために、ただ「神について」というだけでなく、より執り成し手であるキリストを明確に指し示しているように受け取れる。

 

また、新共同訳では「神を仰いでわたしの目は涙を流す」と訳されているが、聖書協会共同訳では「私の目は神に向かって涙を流す」となっていて、「神に」という指向性がより強く示されているように思える。

 

ヨブというのはイスラエル民族ではない。ヨブ記というのは、言わば、異邦の民が神を信じ、キリストを待望し、天にはその方がおられると、キリストを指し示した物語だと言える。