風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「すべては空しい」(コヘレトの言葉1:1~11より長老の説教)

  「すべては空しい」

 
 2022年7月10日(日) 聖霊降臨日後第5主日

聖書箇所:コヘレトの言葉1章1節〜11節

 

 
 今日はコヘレトの言葉を取り上げました。

口語訳聖書の出だしは「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。」と始まります。この部分を読んだとき、衝撃を受けた記憶があります。

 

 この衝撃は何かと考えました。この作者は「人間の営みはすべて無意味である」とし、死んでしまえばそれでお終いと言っているようにも読めます。そもそも信仰とは、すべてが空しいと言って生きている人が、神に出会い、その救いにあずかったとき、空しいとは言わなくなるのではないでしょうか?

この「コヘレトの言葉」が聖書の中に有るということの驚きの衝撃です。

 

 コヘレトの言葉は、「ダビデの子」、つまりソロモンの言葉とされていますが、今日では、ソロモンの名前によって、バビロン捕囚の後、紀元前3世紀から2世紀に記されたと考えられています。この時代は、苦難、試練の時でした。人が今までの生き方とは異なる新しい生き方を見出してゆかねばならないときでありました。その時代に、人の生きるべき道を神さまに問い、求めてコヘレトは言葉を語ったのだと思います。

 では、コヘレトとはどのような人物だったのでしょうか「コヘレト」というのは、「集会を司る者」という意味となっていました。集会で神さまの知恵の言葉を語る者、伝道者、説教者と言えると思います。その集会とは、神の民の集まりと思います。その中でこの作者「コヘレト」は指導的な役割を果たしてきたと思います。

 このコヘレトの言葉の中で印象的なのは「空」という言葉だと思います。

 

 コヘレトはいいます、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」(1:2)何が空しいのか?

 コヘレトは続けます「太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり、永遠に耐えるのは大地」(1:3-4)

 人の世代が変わっていっても、人々は同じ生活を続けていきます。「私の一生とは何なのか」、「私の生きている意味とは何なのか」を追求しても答えは見つかりません。

そこで出てくる言葉が「空しい」だと思います。

 コヘレトは語ります「日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく、どの川も、繰り返しその道程を流れる」(1:3-7)

 人は生活に苦労しますが、天地は人と関係なく動き続けます。人がこの世で苦労して得た物はどうなるのでしょう?どこにも持って行けません。その人が生きた証しもそのうちに消えてしまいます。

 

 箴言10章27節にこうあります、「主を畏れれば長寿を得る。主に逆らう者の人生は短い」

 しかしコヘレトは2章16節で語ります。「賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか」。だから「何もかも、もの憂い」(1:8)「かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない」(1:9)と語ります。

 「太陽の下、新しいものは何ひとつない」、歴史は繰り返しであり、将来も過去と同じだと言います。

 コヘレトは言います「見よ、これこそ新しい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった。昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも、その後の世にはだれも心に留めはしまい」(1:10-11)

 将来が見えず、生きがいが見出せない時、人はどうしたらよいのでしょうか。

 

 人は良い人生を送るにはどうしたら良いかを追求し、箴言のようないろんな処世訓が生まれました。

 しかしコヘレトは1章12~14節で言います、「わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。 わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。」

 コヘレトは1章15節で語っています。「ゆがみは直らず 欠けていれば、数えられない」

 

 人生には私たちにはどうすることも出来ない多くの事柄があります。

 コヘレトは1章16~17節で言います「私は心にこう言ってみた。『見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、私は知恵を深め、大いなるものとなった』と。私の心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った」。

 そして18節で言います「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」

 

 コヘレトは4章1~3節で言います「私は改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから」

 「生まれてこない方が良かった」と言いますが、コヘレトは虚無主義者ではありません。私たちの人生、生きていることには何の意味もない、すべては虚無だと言っているのではありません。

 

 コヘレトは「生きている間に人は何ができるのか」を追求します。そして「死ねばすべてが終わりだ」と彼は考え、「空しい」と嘆きます。

 つまり、コヘレトはこの地上には、人間には救いはないということを見つめているのです。

 

 コヘレトの言葉を読むと、コヘレトは、人間がどんなことをしても、何をしても人間が人間を救うことはできない。そして、救いはただ神から来る!と知っています。

 

 しかし、コヘレトはキリストの復活を知りません。だから彼は嘆きます。しかし、私たちはキリストに出会い、死がすべての終わりではなく死を超えた命が在ることを知っています。

 

 キリストに出会った者は、「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。」と生きるのではなく「希望を持って」生きることができます。

 

 

人生には私たちにはどうすることも出来ない多くの事柄があります。

本当にそうだ!と思った。

 

 

人間がどんなことをしても、何をしても人間が人間を救うことはできない。そして、救いはただ神から来る!

エスは、「人にはできないことも、神にはできる」と言われた。(ルカによる福音書18:27 聖書協会共同訳)

 

 

 しかし、コヘレトはキリストの復活を知りません。だから彼は嘆きます。しかし、私たちはキリストに出会い、死がすべての終わりではなく死を超えた命が在ることを知っています。

 キリストに出会った者は、「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。」と生きるのではなく「希望を持って」生きることができます。

 

 

この一週を生きるための糧に、感謝!

 

 

夫への手紙

今年はもう他に長老の説教はないと思い込んでいましたが、昨日の礼拝は、○○長老がお説教をして下さいました。

掲示板に張り出されていた説教題が「すべては空しい」だったので、何か○○さんらしい気がしていましたが、やはり○○さんらしく、そして素晴らしいお説教でした。

お説教は、こんな風に始まります。

 

口語訳聖書の出だしは「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。」と始まります。この部分を読んだとき、衝撃を受けた記憶があります。この衝撃は何かと考えました。

 

そして最後は、こんな風に結ばれました。

 

コヘレトは、人間がどんなことをしても、何をしても人間が人間を救うことはできない。そして、救いはただ神から来る!と知っています。

しかし、コヘレトはキリストの復活を知りません。だから彼は嘆きます。しかし、私たちはキリストに出会い、死がすべての終わりではなく死を超えた命が在ることを知っています。 

キリストに出会った者は、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」と生きるのではなく、「希望を持って」生きることができます。

 

安倍元総理が銃殺されたりして世の中が激しく動いているように思える中、礼拝で静かにみ言葉に聞くことができ、さいわいでした。

 

どんなに激しく世の中が変わっても、変わらない方がおられるということを知っている幸いを思う。