「主を知ること」
聖書箇所:ホセア書 5章10節〜6章3節
人間は、困難な状況の中でその真価が問われます。いざという時にどう行動するかで、その人がどういう人か分かります。ホセアという預言者は、紀元前8世紀に北イスラエル王国で活躍した人です。
この時代には、イスラエル民族は北と南の2つの王国に分裂していました。分裂してしまうと、それぞれ自分たちの利益を考えて行動し、時に同じ民族でありながら争うことも起こってきました。
北イスラエル王国は紀元前8世紀半ばに全盛期を迎えましたが、崩壊は北イスラエル王国が誕生したときと同じく突然やってきました。 北イスラエルに全盛期をもたらしたヤロブアム2世が亡くなり、その子ゼカリヤが紀元前748年頃暗殺され、約100年間北イスラエルを治めたイエフ王朝は終わりを告げました。
北イスラエルは急激に衰退し始め、アッシリアに服従するようになりました。アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世は領土拡張政策を進めました。ティグラト・ピレセル3世は、諸国を降服させて貢ぎ物を受け取るだけでは満足せず、征服地をアッシリアの代理人が支配する属州とし、アッシリアへ併合することを始めました。
ちょうどペカが北イスラエルの王となった頃、ティグラト・ピレセル3世はアッシリアの隣国であるウラルトゥという国と事を構えていました。ペカはこの機会を利用して、アッシリアのくびきから逃れるために、古くからの仇敵であるアラムと反アッシリア同盟を結びました。この反アッシリア同盟は、シリアの国々、そして南に控えるエジプトの力でアッシリアに対抗しようと考えていましたから、ペカは強制的に南ユダ王国を同盟に加えようとしました。しかし、南ユダは今のエジプトがアッシリアに対抗できるだけの力がないことを知っていたので、同盟に加わりませんでした。そこで、北イスラエルは南ユダを攻撃しました。
南ユダの王アハズは、静かにしているようにとの預言者イザヤの助言にも関わらず、アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世に助けを求めました。そこでティグラト・ピレセル3世は、かねて計画していたように、シリアとパレスチナの征服に立ち上がりました。
アッシリアの軍隊は、北イスラエルの同盟諸国を滅ぼし、北イスラエルは多くの領土を失いました。紀元前733年には、北イスラエルの中心部がアッシリアからの自由を保ち続けているだけでした。 そのような北イスラエルの困難に乗じて、南ユダは北イスラエルの領土をかすめ取ったのです。
もはや北イスラエルにも南ユダにも神を畏れる思いはありませんでした。神の言葉に従い、神と共に歩む神の民の姿はそこにはもうありませんでした。
彼らが恐れるのはこの世の力であり、彼らが求めるのはこの世の富でした。 神がシミとなり、腐れとなり、獅子となってその罪に気づかせる痛みとならなければならないとは、何という悲劇でしょうか。
そして彼らはその耐え得ない痛みの中で、この世には誰も、そして何者も救い得ないことに気づかなくてはならないのです。
(略)
いや、分かろうとしませんでした。預言者がどれほど語ろうとも、その声に耳を貸そうとはしませんでした。そして、人々はこの世の力に頼ろうとしてますます神から離れていきました。
(略)
教会もまた、その内側が病んでいることを認めるよりも、その衰退を自分たちの外側の社会的な事柄から理解しようとします。
(略)
この世は滅びゆく世ですが、神のもとには癒しがあり、命があります。神はこの御言葉をもキリストによって成就されました。キリストはまさしくわたしたちに先立って三日目に甦られたのです。
この罪の世にあっては、キリストを信じる者も、信じない者も共に死を迎えます。この罪の世にあってはすべてのものが滅びへと向かいます。
しかし、神のもとへ立ち返った者、キリストを信じた者には、甦りの命が与えられるのです。そして神のもとで、罪ゆえに傷つき傷つける命ではなく、愛し合い、喜び合う命が満ちあふれてくるのです。
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし 我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし 三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ 降り注ぐ雨のように 大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」
全文→https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2022/09/12/110426
歴史的な事柄が正しいものなのか、間違いがあるのかは分からない。しかし、死者の中から復活したというような事柄を信じるキリスト教信仰が、絵空事でなく、歴史を土台としていることを思うとき、その信仰を〈堅固に支える〉、と思わされる。
〈 聖書を読む 〉ホセア書5〜6章
昨年4月の『聴く』で、私は、こんなことを書いたのだが、6章1~3の解釈は、夫の解釈と同じだったと言える。おそらく私がこのように解釈したのは、夫のこの説教を聞いていたからなのだと考えられるが・・。
毎週、毎週、30年聞きつづけてきた説教は、記憶の中にはっきりとは残っていなくても、無意識の中に残っているものだと思わされた。
長老の祈り
わたしたちは生まれながらに罪を負っている者です。この世の諸々の事柄に心奪われ、神さまの姿を見失い、この世の力に依り頼んで歩んでしまう者です。
このようなわたしたちのために、神さまはイエス様をこの世に遣わしてくださいました。
罪深いわたしたちですが、神さまの救いの約束を信じて、日々歩んで行くことが出来ますように、お願いいたします。
この貧しき祈りを、主イエス・キリストの御名によりまして御前にお献げいたします。
アーメン