風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光(ルカ福音書2:21~40から礼拝説教前半)

この記事はルカによる福音書だけに記されたものです。
エスベツレヘムの家畜小屋でお生まれになって、(2:21)八日が過ぎ割礼を施す時となったので、受胎の前にみ使いが言った通り幼子をイエスと名付けました。

割礼というのは、男性の性器の包皮を切り取る宗教的な儀式です。生来の罪ある肉を捨て去って神の契約の中に入れられ救われるということを示すしるしでありました。罪は伝播し人は生まれながらに罪を抱えていますので、命が生まれるその根本から新しくされ救われなければならないことを示すものです。
創世記の第17章のところで、神はご自身の民として召されたアブラハムに「あなたがたのうち男子はみな割礼をうけなければならない。・・。」と言われたことが書かれてあります。
神の約束があるという、その確かなしるしとして、身に刻まれたしるしとして、命の基から神が罪をきよめ救い出されるというそのしるしとして割礼は行われて来ました。
けれど、これは本来、罪のない神の子イエスには必要ないものです。その必要のないものを人の救いのために身に負われるのです。ここに神の救いが現れます。
神のひとり子イエスは人となって生まれなければならない、そういう必要はありません。十字架を負わなければならないような負い目は何一つ持っておられません。ただ私たち人間を救う、共に生きるために神は御自分に必要のないものを負われるのです。私たちを愛するが故に必要のないものを負ってくださるのです。

この日、天使から告げられた通り幼子に名前がつけられます。その名はイエス。「神は救う」という意味の名前です。
(2:22)それからモーセの律法による彼らのきよめの期間である時が過ぎたとき、両親は幼子を連れてエルサレムにのぼります。
きよめの期間というのは旧約聖書レビ記の12章のところに記されています。ここに記されているきよめの期間は七日と三十三日とで四十日間ということです。
このきよめるという行為は聖書においては、神の前に出られるように整えること、神と共に生きることが出来るように整えるという意味の行為であって、衛生上のことや健康上のことをも含むたいへん広い概念、考え方です。
この規定によって、出産を終えた女性は産後の休暇が保証されていたわけです。信仰というのも、罪人の信仰は時々間違いを犯します。熱心であると、本来休まなければならない状態であっても頑張って神の前に出なさいということを求めることがあります。けれども神ご自身が「これはまだ私の前に出るように整えられた状態ではない。40日間は私の前に来てはならない」と定めてくださるのです。どんなに信仰熱心なものでも、神がこう言っておられるのだから、あなたは動いてはならない。そして、けがれている者が触れたものはけがれるというふうに聖書は考えますから、この40日間は出産後の女性は色々な家事を含めてそういった仕事から免除されていくわけです。周りにいる人たちがその親子を守りつつ支えつつ過ごすというのがこの期間なのです。
この出産のきよめの期間が終わった時に、「その期間が終わった、これから又神と共に神の元で私たちも一緒に歩んでいける」ということを明らかにするのが、ここで言われている「きよめの儀式」なのです。

そしてその時同時に、「母の胎を初めて開く男の子はみな、主に聖別された者と、となえられねばならない」と書いてあるとおり幼子を主に捧げ(2:23)、また同じ主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定めてあるのに従って犠牲をささげる(2:24)のです。

山鳩か家鳩を捧げるというのも、同じくレビ記の12章のところに記されています。本来は一歳の小羊を捧げると定められていますが、貧しくて小羊を買うことが出来ない場合は、「山ばと二羽か、家ばとのひな二羽かを取って、一つを燔祭、一つを罪祭とし」て捧げると規定されています。

又、「母の胎を初めて開く男の子はみな聖別された者ととなえられねばならない」というのは、出エジプトというイスラエルの民にとって神との関係を最も規定する大切な出来事に遡ります。そのことが出エジプト記の13章のところに記されています。
聖書において、「聖別する」というのは「神のものとする」ということを表す言葉です。これは、命は神のものであるということを神の民は覚え続けなければならないということです。神のものである命を神から委ね託していただくために、そのしるし、象徴として初めて生まれた子を神から戴くための贖い金を神殿に捧げることになっていました。
命は神から与えられ神に返すものである。私たちに託されていますけれども、私たちのものではないのです。そのことを神の民は覚えるために子どもが生まれる度にそれを神から贖って託していただく、そのことを繰り返し繰り返し行い覚え続けていったわけです。
このようにしてルカは私たちの救いのために来られたイエスキリスト、その幼子が神の言葉、律法のもとに置かれていたということを丁寧に語っています。

この神の言葉が、神が約束しておられた救い主がついに来られた、神の約束が成就するその時が来た、そうすると、いったいどういうことが現れるのか、そのことをシメオンとアンナが語り始めるというのがこの場面なのです。
(2:25)その時,エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で,イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。
(2:26)そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと,聖霊の示しを受けていた。

旧約のイザヤ書の40章「慰めよ、わが民を慰めよ」という言葉が出てきます。これは、かつて神の民が神から離れていってしまったために国が滅びるという出来事がありました。北イスラエル王国アッシリアによって滅ぼされ、南ユダ王国新バビロニアによって滅ぼされました。そしてその新バビロニアは、エルサレムの人々を捕虜として自分達の国へ連れて行ってしまった。これをバビロン捕囚と言いますが、このイザヤ書の言葉はバビロン捕囚から解放される時が近づいてきたということを告げる預言であります。
そして、このイエスの生まれた時代、ユダヤはローマによって支配され、ローマに税金を納めねばならないという状況にありました。この「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」というのは、神の民がこの世の力から解放されるのを待ち望んでいたということです。
神の民が本当に神によって治められ神によって導かれ神と共に生きて行く、神の祝福が、恵みが、慈しみが、憐れみが、神と共に生きる民の間に現れる。そのことをこのシメオンは待ち望んでいたのです。

そして、そのようなことをもたらしてくださる救い主に会うまでは死ぬことはないという示しをシメオンは聖霊から受けていました。その人が聖霊に導かれて神殿へと入って来ます。するとイエスを連れた両親がそこへ入ってくる(2:27)。シメオンは近づきその幼子を腕に抱いて神をほめたたえて言います(2:28)。「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに この僕を安らかに去らせてくださいます(2:29)。わたしの目が今あなたの救を見たのですから(2:30)。

聖霊によって、この幼子は神から遣わされた救い主であるということがシメオンに示されました。そしてシメオンは神の約束が真実であることを、この幼子に出会って知ったのです。信じてはいました。が、それがいつ果たされるか分からない。けれど、ついにその時が来たのです。神は私たちに語られた言葉を果たしてくださる。今こそついにその時が来た。神の言葉を信じてきたことは正しかった。そのことをこのイエス・キリストとの出会いによってシメオンは示されます。
けれどシメオンはまだイエスの教えも奇跡も知りません。十字架も復活も知りません。そこにはただ生まれたばかりの幼子がいるだけです。けれど、このイエスに出会ったことで、神の約束が、神の民が信じてきた神の言葉が成就されるということをシメオンは知るのです。
旧約の言葉はイエス・キリストを指し示していると言われます。イエス・キリストが来られたことによって、旧約の言葉が語っていた出来事が、そして旧約の様々な戒めが、民に求める様々な儀式のその意味が、この幼子によって明らかになる、それをシメオンは知ったのであります。

神をほめたたえてシメオンは語ります。
(2:31)この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、
(2:32)異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります。
神の救いは万民、すべての民の前に供えられ差し出されたものです。
救い主イエスは、異邦人に、救いとは何か、救いは誰から来るのかを示す啓示の光です。
そしてイスラエルには、神の言葉は真実であり、神は間違いなくあなたの救いの神であることを証しする神の栄光そのものであります。
神の民イスラエルだけが救われるのではありません。イスラエルは、すべての民のための救いを成就するために召され仕えてきました。神の言葉を聞き、神の言葉を信じて生きることは決して虚しくは終わらない、その信じていたことは必ず実現され成就されその恵みに預かるということを、希望として抱いていたことを喜びとして受け取るということを神の民は証しするために召されているのです。
わたしたちが信仰に導かれたのも同じであります。すべての民のための救いを成就する神の御業のために召されて私たちは仕えてきました。
神を信じることによって神の祝福が注がれてくる、そしてそれは信じたその人だけを救うのではなく、信じた人を祝福の基として神の祝福は注がれ続けていく。私が神と共に生きる時、神は私を用いて、その神の恵みを注ぐ御業をなしてくださる。そのために神の民が召されていた。

この時ローマに支配されていたイスラエルの中では、救い主というのはかつてのダビデ王のように自分達を支配する敵を打ち破って、「俺たちこそ一番強い優れた国だ。なぜなら俺たちは神の民だからだ」という、そういう誇りを、神の民としての誇りを回復してくれるような救い主を期待し待ち望んでいました。
けれども今シメオンが聖霊によって示されたのは、この生まれたばかりの子どもは、万民の前に備えられた救い、異邦人をさえ照らす啓示の光、そして神の民にとっては神の栄光そのものとなってくださるお方であるということだったのです。
「あぁ、私が考えていたようなそんなちっぽけなものじゃない。神さまの救いは何と大きく世界を包むのだろう」

私たちは今ここに集まって礼拝を捧げています。けれどもここに集まった私たちだけを救うために、神は私たちを召されたのではありません。神はこのところにおいて救いを成し、この救いを、私たちを通して、教会の外にいる人々、この地に住む人々、この国に住む人々、そして世界の人々に注ぐために、神は私たちを神の民として召してくださいました。神の言葉、律法は神と共に生きることを指し示して、救い主イエスを指し示して、そして私たちの思いを、人間の思いをはるかに超える神の救いへと導いていくものであることを、ルカはこの出来事を通して私たちに伝えようとしています。