一時期彼女と教会との関係がぎくしゃくした時期があった。あるとき、聴罪師が突然、あなたは一度も夫を裏切ったことはありませんかと尋ねた。相手がそう言い終わらないうちに、ぱっと席を立ち、返事もあいさつもせずに帰っていき、以後その聴罪師はもちろん、他の誰にも告解しなくなった。(ガルシア・マルケス『コレラの時代の愛』p489~490)
カトリックの方達には申し訳ないが、私も、罪の告白は人間なんかにするものじゃないという考えだ。
私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。(ヨハネの手紙一1:8 聖書協会共同訳)
もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。(ヨハネの第一の手紙1:9 口語訳)
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。(ヨハネの手紙一1:9 新共同訳)
新共同訳には「公に」という言葉が挿入されている。これが引っかかる。
しかし先に引用した聖書協会共同訳にも口語訳にも、2017年版新改訳聖書にもフランシスコ会訳にも、また岩波訳にも「公に」という言葉は入っていない。
極めつけは、リビングバイブルで、ここの訳は以下のようになっている。
もし自分には罪がないと言うなら、それは、自分のほんとうの姿から目をそらしているのであって、真理を受け入れようとしない証拠です。しかし、もし自らの罪を神に告白するなら、神は真実な方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(ヨハネの手紙Ⅰ1:8,9 リビングバイブル2017)
やはり、罪の告白は〈神〉にするものだ、と思う。