とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。(申命記33:27 口語訳)
この御言葉は、ティリッヒの「神は存在の根底である」という言葉に拘っていた私に夫が教えてくれた言葉だ。申命記にこんな言葉があるよ、と言って。
エシュルンの神のような方はほかにはない。
あなたを助けるために天を駆け
力に満ちて雲に乗られる。いにしえの神は難を避ける場所
とこしえの御腕がそれを支える。神はあなたの前から敵を追い散らし
「滅ぼし尽くせ」と言われた。(申命記33:26,27 新共同訳)
エシュルンとはイスラエルの呼び名のようだ。
日曜日に逝去者記念のお説教をお聴きしていて、この旧約に記された御言葉はキリストを指し示していたのだと思った。それで、十字架の死から復活されたキリストについて記された言葉を調べたのだった。
しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。(ヘブル人への手紙10:12,13)
申命記33章27節後半の「神はあなたの前から敵を追い散らし「滅ぼし尽くせ」と言われた」という言葉が、ヘブル人への手紙で記された「敵をその足台とするときまで、待っておられる」キリストへと繋がっていくと思われた。
神は、誰に、「滅ぼし尽くせ」と言われたのか?
キリストに、である。
ここに、三位一体の概念が見え隠れしている。
この卒論の下調べのノートには夫の文字で「義認も三一論的 ~ 狭いホライズンではダメ!!」とペン書きがしてあった。
確かに、ローマ人のこの部分を「キリストの信仰」と訳すなら、誰に対する「キリストの信仰」なのか?ということが問題となってくるだろう。ここで三位一体の概念が必要となってくる。「キリストの(父なる神への)信仰」と。
キリストは十字架上で、罪という敵を滅ぼし尽くして下さったのだ。
そして「敵をその足台とする」再臨の時まで「待っておられる」のである。
日曜のお説教で、「いつまで〜あなた方を我慢しなければならないのか」の「我慢する」というのは、「英語で言えばホールドアップである」と言われ、原文では「「下から両手で支える」という語が当てられている」と語られていた。
原文ではどうか分からないが、英語の「hold up」には「持ちこたえる」という意味もあるようである。これは、「耐える」や「堪える」、「我慢する」という意味にもなるように思える。
こちらの意味を採るなら、「敵をその足台とするときまで、待っておられる」の「待っておられる」にも繋がっていくようにも思えた。
そこで、主は「なんと信仰の無い、よこしまな時代(直訳「生まれてきた者」)なのか」(41節)と言われた。時代が悪いと言われるのではない。弟子たちも、群衆も、父親も、生まれてきた者は皆、捻じ曲がっているとお叱りになっているのではない。「なんと」は原文では「オー」という感嘆詞。主の口を突いて出た憐れみの叫び。41節bがそれを窺わせる。「いつまで〜あなた方を我慢しなければならないのか」は苛立ちの言葉ではない。英語で言えばホールドアップである。「下から両手で支える」という語が当てられている。直接に手で支えることは十字架までしかできない。
イエス・キリストは人となって私たちの所に来て下さり、罪の中で苦しむ私たちを「下から両手で支えて」下さり、十字架上で罪と対峙して下さり、復活してなお「敵をその足台とするときまで、待って」いて下さるのだ。
D・F・ペインは『申命記』(新教出版社)の最後に、以下のように記している。
モーセは不死ではなかった。…彼は自然の摂理に従って死んだ。一方、モーセの神は生きつづけた。まさに次節(ヨシュア記1・1)が描き出すのは、モーセの後継者に語りかけ、彼に必要な指図を与えている神の姿である。現代の讃美歌に歌いあげられているごとく、「モーセの世にありし神は、まさに今の世の神と同じ神なのである」。
主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。
…あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。
主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。(申命記34:1,4〜6)
『博士の愛した数式』の中では、「一人の人間が1つだけ足し算をした途端」と表現されていたのだが、私はここを、「絶対的な一つのもの(つまり私の中では神ということだが、)を加えると、全く相容れなかったものたちが無限の存在によって抱き留められる」と表現したいと思う。
神という存在の根柢によって、私達は私達自身でありつづけながら、無限に抱き留められている。
とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。(申命記33:27)