風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「下から両手で支える」(逝去者記念の礼拝説教より)

昨日の逝去者記念礼拝に遠くからお出でくださった先生のお説教要旨の抜粋を、以下に、(すみません)無断で掲載させて頂きます。

 

「返していただいた人生を

  2023年10月15日(日) 聖霊降臨節後第20主日

聖書箇所:ルカによる福音書  9章37節~43節

 本日の聖書箇所の前後を、主の山上栄光のお姿と十字架予告とが取り囲んでいる。31節、主は栄光のお姿を現しながら、「エルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」。この「最期」は十字架のこと。主はご自身の十字架を栄光の中で語られた。十字架は挫折ではないと。この「最期」はエクソダス=脱出、出発という意。出エジプト記の「出」と同じ。ルカによる福音書は、その栄光の出発が、38節「一人の男」の再出発を促したといって語り出す。

 

(略)

 

 そこで、主は「なんと信仰の無い、よこしまな時代(直訳「生まれてきた者」)なのか」(41節)と言われた。時代が悪いと言われるのではない。弟子たちも、群衆も、父親も、生まれてきた者は皆、捻じ曲がっているとお叱りになっているのではない。「なんと」は原文では「オー」という感嘆詞。主の口を突いて出た憐れみの叫び。41節bがそれを窺わせる。「いつまで〜あなた方を我慢しなければならないのか」は苛立ちの言葉ではない。英語で言えばホールドアップである。「下から両手で支える」という語が当てられている。直接に手で支えることは十字架までしかできない。

 

 主は、「あなたの子をここに連れてきなさい」(41節b)=尽きない憐れみの主であるわたしのもとに連れてきなさいと言ってくださる。理不尽、労苦を抱える「あなた」がと言ってくださる。ここに「一人の男」の再出発が始まる。「子供をいやして父親にお返しになった」(42節)。父親にしたら、ただ息子が癒されたとは思われなかったはず。この父親はただただ良い父親であったとも思われない。確かに我が子のためにはなんでもしてきたし、今もしている。しかし、「できませんでした」(41節)と諦めが口を突いてもいる。もしかしたら、「この子さえいなければ」という思いが心をよぎったこともあったかもしれない。理想の模範的な父親とは思えない。苦悩と労苦の中で、諦めもし酷いことを考えてしまう我々と変わらない「一人の男」であった。それが、主によって「もう一度、この子と生きて行きなさい」と人生を返していただいた。この再出発は祝福の歩みになった。信仰の先達たちも皆、返していただいた人生を全うした。我々もそれに続く者とされたい。

 

この「下から両手で支える」という訳をお聞きして、申命記33章27節の御言葉を思い起こした。

 

とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。(申命記33:27 口語訳)

 

meromeropy77.hatenablog.com「同一性と差異性の同一性」などと言われると、わけが分からないと思ってしまいそうなのだが、つまり、他とは全く相容れない個どうしが個でありながら一つに統合された状態を言っているのだと思う。そしてこの状態こそがティリッヒ神学の根本構造だと言っているのだ。これは、三位一体を言い表している。

博士の愛した数式』の中では、「一人の人間が1つだけ足し算をした途端」と表現されていたのだが、私はここを、「絶対的な一つのもの(つまり私の中では神ということだが、)を加えると、全く相容れなかったものたちが無限の存在によって抱き留められる」と表現したいと思う。

神という存在の根柢によって、私達は私達自身でありつづけながら、無限に抱き留められている。

 

 

それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。(使徒言行録2:33)

 

だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。(ローマ人への手紙8:34)

 

しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。(ヘブル人への手紙10:12,13)