風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

しかしイエス キリストによる恵みの賜物は…はるかに豊かに多くの人々に満ちあふれる(ローマ人への手紙5:12~15)よりの説教

事務的な仕事に追われると、肝腎な仕事が出来なくなる。夫も、東京や京都への出張で忙しくしていた時は聖書の御言葉に向き合う時間が削られていたように思う。病気をして役を免除され会合に出かけなくなってから御言葉に向き合えるようになったせいか、日曜の礼拝時間が短くなった。説教が短くまとまるようになったためだと思われる。礼拝時間が短いというのは、高齢の方や身体に痛みを抱えた方には優しい作用をもたらすように思う。



以下、ローマ人への手紙5:12~15よりの礼拝説教。


 聖書は、救いについて語ります。どのような救いかというと、罪からの救いです。
 マタイ 1:21で、イエスの誕生を告げる天使が「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」と言っています。
 ですから、罪が分からないと、自分に救いが必要なのか、自分が救われているのか、分からなくなります。それでパウロは、罪をきちんと理解させ、イエス キリストが救い主である、イエス キリストによって救われていることを伝えようとしています。


 聖書は告げます。一人の人アダムによって罪がこの世に入ってきた。そして罪によって死が入ってきた。こうしてこの世は、死に支配される罪の世となりました。
 聖書は、すべての人が罪を犯したと言います。罪とは、神と共に生きることのできない状態を言います。神と共に生きることができない。神の御心に従えないことです。
 アダムとエバが、エデンの園において、禁じられていた善悪を知る木の実を食べてしまった。それによって、神の御心とは違う自分の善悪を持つようになり、神の御心に従うよりも自分の善悪に従うようになってしまった。こうして人は、命の源である神から離れて、死に向かって生きるようになってしまいました。地を治めるように神から委ねられた(創世記 1:26, 28)人が罪を抱えてしまったため、世界全体が罪を抱えることになってしまいました。

 こうして世界全体が罪を抱えたため、この世に生まれてくるものは、すべて生まれながらに罪を抱え、罪を犯すようになってしまいました。
 幼子も、親の判断とは関係なく、自分にとってよいこと、心地いいことを求めます。親が危険だから触らないようにと言っても、子どもは興味を持ったら手を伸ばします。
 同じように、人も神の命令とは関係なく、自分が興味を持ったら、自分にとって楽しそう面白そう、自分がほしいと思ったら手を伸ばしてしまうのです。

 聖書は、生まれながらに悪を好むと言っているのではありません。聖書が言っているのは、生まれながらに神の御心とは違う自分の善悪で生きようとする罪を抱えている、と言っているのです。そして、神とは違う考えで、神から離れていくその先、命の源である神から離れていくその先には死と滅びがあると聖書は言っているのです。
 この罪と、罪がもたらした死と滅びを解決するには、罪からの救いが必要なのです。そして神は、わたしたちを罪から救う救い主としてご自身のひとり子イエス キリストを遣わしてくださったのです。


 神がアダムとエバに「善悪を知る木からは取って食べてはならない」(創世記 2:17)と命じられたことによって、それを守れない従えない罪が露わになりました。律法の働きの一つが、罪を明らかにすることです。
 わたしたちは、アダムとエバのように善悪を知る木の実を食べたことはありません。しかし律法を知るとき、神の御心を自分の思いとして生きることのできない罪を知るのです。そして、すべての人が死に囚われているという事実が、どんなに素晴らしく見える人であっても罪を抱えており、すべての人が罪からの救いを必要としていることが分かるのです。


 アダムの物語は、一人の人によって罪がこの世に入り、罪によって死が入ってきたことを示しています。このアダムが犯した罪を、神学では原罪( Original Sin )と呼びます。アダムの出来事は、罪の本質を示す出来事でした。
 神は、この罪の根本を解決するため、アダムを来たるべき救い主イエス キリストの型とされました。つまり、一人の人によって罪がこの世に入り、それによってすべての人が罪を抱えることになったと同じく、一人の人イエス キリストの救いの業によって、すべての人が救われるようにされたのです。
 そのことを聖書はこう語ります。「もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。」(5:15)

 神はご自身のひとり子イエス キリストを救い主として遣わすことによって、罪を根本的に、徹底的に解決されたのです。しかも、罪と等しい大きさのもので解決されたのではなく、はるかに豊かなもので解決してくださったのです。
 例えば、窓を割るには小学生でもボールをぶつければ割ることはできます。しかし、割れた窓ガラスを直す、あるいは新しく窓ガラスを作るのには、壊すのとは比べられないほどの労力、能力、時間が必要です。
 アダムは、来たるべき救い主イエス キリストを指し示す型であります。しかしイエス キリストによる恵みの賜物は、罪過の場合とは異なり、はるかに豊かに多くの人々に満ちあふれるのです。わたしたちの罪をゼロにするだけでなく、豊かに満たす恵みなのです。

 その豊かさをエペソ人への手紙はこう表現します。「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように」(エペソ 3:17~19)人の想像をはるかに超え、この世界、この宇宙を満たす豊かな恵みがイエス キリストを通して注がれているのです。


 わたしたちを罪から救えるのは、イエス キリストただお一人です。わたしたちを救うためにご自身を献げて十字架を負ってくださったのは、イエス キリストです。わたしたちを死から解放するために死を打ち破ってくださったのは、イエス キリストです。わたしたちはイエス キリストによって救われるのです。
 キリストの救いの恵みに満たされているとき、わたしたちは自分の罪を知ることができます。罪を抱えた自分自身を受け入れることができます。イエス キリストは、このわたしの過去も現在も未来も含めたわたしのすべてを救うただ一人の救い主なのです。


ハレルヤ                    「聖書の言葉を聴きながら」より


このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。(ローマ人への手紙5:12~15)