風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「義人はいない、ひとりもいない」ーローマ人への手紙 3章9~18節より礼拝説教

  パウロはローマの教会に宛てて手紙を書きました。パウロは この手紙の意図をこう書いています。「わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである」(1:15)
 福音は、神が与えてくださったよい知らせです。神がひとり子を救い主として遣わしてくださり、罪人の救いを成し遂げてくださった、ということです。

 罪人の救いですから、自分が罪人であること、自分が罪を抱えていることに気づかねばなりません。そこでパウロは、すべての人が神の前で罪人であることを明らかにします。

 「すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか」(3:9)「絶対にない」パウロは言います。異邦人キリスト者であれ、ユダヤキリスト者であれ、誰もが罪人なのです。パウロはここで旧約の詩篇、伝道の書、イザヤ書を自由に引用して、聖書がすべての人は罪人であると言っていることを明らかにします。

 「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない」(3:10, 11)
 義人とは、神の御心を正しく理解し、神に従い、神の御業に仕える人です。「悟りのある人」は「賢い人」とも訳されます。神の知恵に等しい知恵を持つ人のことです。「神を求める人」は、神と共にあることを当然のことと思い、それを求める人です。神の助けを必要として神を求めるのではなく、神の恵みや御利益を必要として神を求めるのではなく、神といつも共にあることが当然だから神を求める人のことです。パウロは聖書を引用して、義人はいない、悟りのある人はいない、神を求める人はいない、一人もいない、と語ります。

  「すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない」(3:12)
 ここで言う善とは、神の御心のことです。 神の御心こそ善であります。すべての人は神から離れ、さまよい、神の御心である善を行えず、無益な者となっています。神の御心を行う者は一人もいないのです。イエス キリストのように、罪人のために自分の命までも献げる十字架の道を「あなたの御心がなりますように」と言って歩み行く者は一人もいないのです。

  人間のレベルで言うなら、正しい人も、悟りある人も、神を求める人も、善を行う人もいます。しかし、どんな立派な素晴らしい人も、罪の報いである死を打ち破った人はいません。自分の罪なき命を献げることで死を滅ぼし、そして復活し、罪人に永遠の命を与えるという神の御心をなしたのは、イエス キリスト以外には誰もいない、一人もいないのです。

 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている」(3:13, 14)
 これらは、思いと言葉を表す表現です。世には優しい言葉を語る人もあり、温かい思いを持った人もいます。わたしたちはそういうこの世にある優しい温かいものに心を向け、希望を持ちたいと願います。しかし神は、すべての罪人を救い、この争いや対立のなくならない世界を救おうとされています。神は、偽りがあり、詐欺がある世界、差別や迫害のある世界、争いがあり、命が奪われる世界を見ておられます。そういう罪のただ中で生きなければならない人々を見ておられ、その救いを願っておられます。この聖書の言葉は、罪に支配され、罪に導かれている罪人を表す言葉です。

 「彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない」(3:15~17)
 足や道は、人生の歩み、人類の歴史を表します。罪の世で生きるとき、血は流され、破壊と悲しみがあります。人間は長い歴史の中で、文明を積み重ね、様々な発明・発見をしてきました。しかしまだ、平和をもたらす発明、発見をしたとは言い難いのが現実です。

 パウロの最後の引用は「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」(3:18)という言葉です。神に対する正しい恐れは、神の御前に立ったときに与えられるものです。そして神の御前に立つとき、自分自身の罪に気づき、自分自身が救いを必要としていることに気づきます。そして神が救おうとしておられる世界、神が救おうとしておられる人々に目を向け心を向けていくのでなければ、この聖書の言葉を理解し受け入れることはできないだろうと思います。

 「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。」
「いや、それは極端ではありませんか。正しく生きようとしている善い人も世にはたくさんいます。深い理解、悟りある人もいるじゃありませんか。わたしも神を求めて生きています。善を行おうとする人もいるじゃないですか。」

 パウロが引用した旧約の言葉、詩篇のいろいろな箇所、伝道の書、イザヤ書から集めてきています。パウロは旧約の様々な箇所で、すべての人は罪を抱えていることを告げている、と言おうとしています。しかしこれだけ集められると「それは極端で言い過ぎではないでしょうか」とわたしたちの内の善意や良心はそう思って、この聖書の言葉は確かにそのとおりだと聞けないことがあるだろうと思います。

 しかし、神の前に立って、神の前で御言葉に照らされて、自分自身の罪に気づき、本当に救いが必要であると知った人には「確かにそのとおりだ、それぞれに善意があり、それぞれに善いことを行っている。けれど神の御心のままに、イエス キリストのように生きて、死に打ち勝つ人は、誰もいない。誰もが死に囚われており、キリストの救いを必要としている。キリストの救いなくては、最後死に飲み込まれてしまう。その人自身が消え去ってしまう」と気づくのです。

 そして神の御前に立って、神の御言葉、神の御業を知っていくとき、「神はお造りになった一つひとつの命を顧み、惜しんでおられる。その命を救うために、神自らが御子を差し出すという大きな痛みを抱えて、わたしたちのために御業をなしてくださった」ことに気づくのです。神の前に立ち帰ることなくして、神に対する畏れの念を持つことなくして、自分たちの知恵や努力で、平和の道を作り出すことはできません。「主よ、憐れんでください」と祈りつつ、「主よ、助けてください」と導きを求めつつ、自分自身が神に立ち帰っていくのでなければ、わたしたちは御言葉を聞いて、神の御心を知るに至ることはできないのです。

 わたしたちは、神の御前で、命の意味、そして自分自身に気づかされます。わたしに命を与えられた神が、永遠の命をも与え、共に生きようとしてくださっていることに気づきます。神の言葉が、自分を神へと立ち帰らせ、神と共に生きることへと導くことに気づきます。

 だからパウロ「わたしとしての切なる願いは・・あなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである」(1:15)と語るのです。自分の罪を知って、本当の救いに与るためにユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを・・指摘した」(3:9)のです。

 どうか、神の言葉によって自分の罪を知り、神の御前に立つ者となり、本当の救いに与る者となられますように。パウロと同じように、本当に救われることを願って、家族や大切な人たちのために祈り、福音を宣べ伝えていかれますように。

 ハレルヤ


新約聖書を初めて読んだ時、最も心捉えられたのがローマ人への手紙であった。けれど、今までローマ人への手紙の説教は聴いたことがなかった。注解書なども読んだことがない。読んだ記憶が、ない。
昨年10月から、夫がローマ人への手紙の講解説教を始めた。それで、説教でローマ人への手紙を聴き始めることとなった。今回の箇所「義人はいない、ひとりもいない」は、ローマ人の中で最も心を捉えた11章32節以下の所に繫がっていく言葉である。
説教を聴いて新たに理解出来たのが、「善」とは「神の御心」のこと、という部分だった。「善」というと、「何か良いこと」というイメージで漠然と思い描いているだけだったのが、「神の御心」というはっきりとした形を得ることが出来た。「神の御心」とは何だろう。やはりここでも「愛」という言葉が思い浮かぶ。