まだ田舎にいるうちからルージンは、かつて後見をしてやったレベジャートニコフが、いまは若手の進歩派のちゃきちゃきとして、よく話題にのぼる現実ばなれした一部のサークルで羽ぶりをきかせている噂を聞きこんでいた。この噂はルージンをおどろかせた。ほかでもない、なんでも知っており、なんでも軽蔑し、なんでもあばきたてる、この種のこわいもの知らずのサークルにたいして、ルージンはもう以前から、一種特別の、とはいえまったくつかみどころのない恐怖心を抱いていたのである。(略)彼はみなと同じように、とりわけペテルブルグには、進歩派とか、否定主義者(ニヒリスト)とか、暴露主義者とかいった連中がうようよしていると聞いていただけで、世間一般の例にもれず、こうした呼び名の意味や性格をばかばかしいくらいゆがめ、誇張して考えていた。とくに、もう数年ごし、彼が何より恐れていたのは暴露主義というしろもので、これは、彼がたえず抱いている誇張された不安のいちばんのもとになっているほどだった。とりわけ、ペテルブルグに打って出ようと空想するとき、この不安がつのってくるのである。(略)そんなわけでルージンは、ペテルブルグに着きしだい、即座に事態をたしかめ、もし必要とあれば、万一にそなえて先手を打ち、《わが国の最新世代》に取り入っておこうと思ったのである。この点で彼はレベジャートニコフに望みをかけていた。(岩波文庫『罪と罰 下』p13~15)
レベジャートニコフというのは、上巻のマルメラードフの語りの中にすでに登場している。
いや、レベジャートニコフさんは新思想の信奉者でしてね、同情などというものは、今日では学問上でさえ禁じられておる、現に、経済学とやらの盛んなイギリスではそうなっておるって、せんだっても説明してくれましたよ。じゃ、どうしてその先生がお金を貸してくれるんです?(『罪と罰 上』p33~34)
下巻に戻ろう。
ソフィヤ・セミョーノヴナ個人について言えば、現在では彼女の行動は、社会の機構にたいする精力的な、肉体を張った抗議だと思いますね。だからぼくはその点で彼女を深く尊敬しているし、彼女を見ていると、うれしくなってくるほどです!」
「しかし、そういうきみ自身、あの娘をこの家から追いだした張本人だと聞きましたね!」
レベジャートニコフはいきり立った。
「また中傷だ!」彼はわめきたてた。「(略)ぼくはただたんに、まったく私利私欲をはなれて、彼女を啓蒙し、彼女の心に抗議を呼びおこそうと努力しただけなんです・・・・・ぼくに必要だったのは抗議だけで、彼女自身が、当然の帰結として、こんな部屋にはとどまっていられなくなったんです!」
「ぼくはすっかり聞きました。すっかり見ました」彼は、最後の言葉にことさら力をこめて言った。「実に高潔です、つまり、ヒューマンだということです! あなたは感謝を避けようとなさった。ぼくは見ましたよ!
実を言えば、ぼくは原則として、個人的な慈善行為は同感できませんがね、というのは、それが悪の根源を根本的にはのぞきえないばかりか、むしろ悪を温存するものだからなんですが、しかし、白状させてもらうと、あなたの行為には満足感をおぼえましたね。そうです、そうです、大いにぼくの気に入ったんです」
「なに、つまらないことですよ!」ルージンはいくぶん興奮の態でこうつぶやき、なぜかレベジャートニコフの顔色をうかがった。
「いや、つまらないことじゃない! あなたのように、昨日の件でそれこそ煮えくりかえるような気持でいながら、同時に他人の不幸に思いやりをもてる人間はですね、たとえ行為が社会的な誤りであるとしても、やはり・・・・・尊敬に値する人ですよ!(『罪と罰 下』p41~42)
(赤字表記は、管理人ミルトスによる)
ここは、ソーニャのポケットにルージンがこっそり紙幣を押し込むのを、レベジャートニコフが目撃した後の場面である。
ところで、ルージンというのはこういう男。
もう何年になるだろう、ずっと以前から、彼は心とろける思いで結婚のことを夢にえがき、それでもこつこつと金をためることに専心して、時節を待っていた。彼は心の奥底に秘めかくすようにしながら、品行がよくて貧乏な(ぜったいに貧乏でなければいけない)、ひじょうに若く、ひじょうに美しい、上品で教養のある、ひどくおびえやすい娘、人生の不幸という不幸を味わいつくして、彼には頭もあがらぬような、生涯、彼だけを自分の救い主と考えて、彼だけをうやまい、彼だけに服従し、彼ひとりだけを賛嘆のまなざしで見つめているような娘を、わくわくしながら思いえがいていた。(『罪と罰 中』p243)
作者ドストエフスキー自身は、共産主義的な新思想の持ち主レベジャートニコフを良いようには描いていないようなのだが、この後で、ルージンがソーニャを陥れるために紙幣をポケットに押し込んだのだということを衆目の前でレベジャートニコフに暴露させている。
人でなしの悪党のあなたに、ぼくはね、あのときすぐ、つまり、ぼくがあなたに感謝して、手をにぎっていたときに頭に浮かんだ疑問まで、ちゃんと覚えているんですよ。いったいどうしてこっそりポケットに押しこんだりするんだろう? なぜこっそりでなくちゃいかんのだろう、という疑問です。でも、ぼくが個人的な慈善には主義として反対で、そんなものは何ひとつ物事を根本的に変えることができないと、否定してかかっているのを知っているものだから、それでぼくにかくそうとしただけかもしれない。そう思ったからぼくは、あなたがぼくの手前、あんな大金を恵むのが事実恥ずかしかったんだろうと決めてしまったわけです。(略)それから、感謝されるのをきらって、例の、右手にも知らしむべからず、でゆくつもりかなともね・・・・・(略)ただ、そう思うはしから、へたをすると、ソフィヤ・セミョーノヴナが、気がつくまえに金を落とすかもしれない、という問題がまた頭に浮かびましてね、そこで、ここへ来て、あのひとを呼びだして、ポケットに百ルーブリがはいっていることを教えてやろうと、こう決心したわけなんです。(『罪と罰 下』p90~92)
ソーニャがお金を落とすんじゃないかと心配して教えに来るという展開にはレベジャートニコフの人の良さが表されていて可笑しいのだけど、この「人の良さ」にドストエフスキーの共産主義者への理解が表されている、と言える。
そしてレベジャートニコフの発する、「個人的な慈善行為は同感できません」「それが悪の根源を根本的にはのぞきえないばかりか、むしろ悪を温存するものだから」「社会的な誤りである」、「個人的な慈善には主義として反対」「そんなものは何ひとつ物事を根本的に変えることができない」という言葉から、ドストエフスキーが共産主義を熟知していたことが分かる。
共産党員である人が笹川財団の力を借りて障害者の施設を作ったということがあった。長く障害児教育に携わってきた人だった。その人がその後、党から除名されたかどうかは聞いていないが、党員の一人から「やり方が間違っている」と言って、その話を聞いたのだった。私が担当していた子どももそこに入所しているかもしれない。
『罪と罰』は面白く読める小説なのだが、ここには多くの事柄が詰め込まれている。
そしてそれらはすべて、「愛」に関わることなのである。