風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

自覚することの難しい「無自覚の罪」 ー ドストエフスキー『罪と罰』から

自分の罪というのはそれぞれに与えられる出来事を通して自覚されるものだろうと私は考えていて、私自身の「罪」についてはこれまでにいくつかの出来事を通して自覚しているのだが、ここでは、自覚することの難しい「無自覚の罪」について考えてみたいと思う。

 

ドストエフスキーの『罪と罰』のタイトルがどういったことを表そうとしているのか、実のところ私はまだ理解できていない。

「罪」に対して「罰」がくだるというような単純なものではないだろう、と漠然と思いつつ、よく分からないというところで留まっている。

 

けれど、ドストエフスキーが考えている「罪」は、エピローグの「ラスコーリニコフの見た夢」に描き出されている。

myrtus77.hatenablog.com

 

しかし、今回はそれとは違う「罪」について書きたいと思う。

良かれと思って為した「罪」について。

良かれと思って成したことが「罪」であったと自覚するのは、私たちにとっては、とても難しいことだろうと思われる。

myrtus77.hatenablog.comわが身のため、わが身の安楽のためなら、いや、われとわが生命を救うためにでも、自分を売ったりはしないくせに、いざ他人のためとなると、こうして売ってしまうんだ。愛し、尊敬する人のためには売ってしまう!ほら、これが手品の種あかしさ、兄のため、母親のためなら売る! なんでもかんでも売ってしまうんだ! ああ、人間というやつは、こういう場合になると、自分の道義心さえおし殺して、自由も、安らぎも、良心さえも、いっさいがっさい、古着市場へ持ちこむものなんだ。自分の一生なんか、どうとでもなれ! ただ愛する人たちがしあわせになってくれさえすればいい。そればかりか、ジェズイット教徒そこのけに、自分なりの小理屈までひねりだして、目先だけにせよ、自分を安心させる。これでいいんだ、正しい目的のためにはこれでなくちゃいけないんだと、自分に言いきかせる。(略)この芝居のいちばんの主役は、まちがいなく、かく言うロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフなんだ。まあ、それもいいさ、彼を幸福にしてやることも、大学をつづけさせることも、法律事務所の共同経営者にしてやることも、生涯困らぬようにしてやることもできるんだからな。それに、ひょっとすれば、そのうちには大金持ちになって、名誉と尊敬を一身にあつめ、一流の名士として生涯を終えるかもしれない! だが、母さんは? なに、問題はロージャなのさ、だいじなだいじな総領息子のロージャ! こういう息子のためなら、あんな立派な娘を犠牲にしたって、悪かろうはずはないってわけさ! ああ、なんと愛すべき、まちがった心だろう!(岩波文庫罪と罰 上』p89~96)

 

これは、ラスコーリニコフが老婆を殺害する前の部分である。

 

myrtus77.hatenablog.comしかし、この最後の言葉を絶叫しながら、彼は思わずドゥーニャと視線を合わした。そして、その視線にこめられた自分ゆえの苦痛のあまりの大きさに、心ならずもわれにかえった。彼は、何を言おうと、やはりこのふたりの哀れな女性を不幸にしたのだと感じた。(岩波文庫罪と罰 下』p345)

(略)

『しかし、おれにそれだけの値打ちがないのだとしたら、どうして彼らはおれをこんなに愛するんだろう! ああ、もしおれがひとりぼっちで、だれからも愛されることがなかったら、おれだってけっしてだれも愛しはしなかったろうに! こんなことは何もなかったろうに!(p348)

 

「こんなこと」とは、金貸しの老婆の殺害のことだろう。

そもそも貧しいところに、妹ドゥーニャがラスコーリニコフのために身売り同然の結婚をすると言い出したことが殺人へと拍車をかけた。

 

ここで描かれているのは、ラスコーリニコフの妹ドゥーネチカの「罪」である。

兄のために良かれと思って成そうとしたことが、紛れもなくその兄ラスコーリニコフを高利貸しの老婆殺害へと追い詰めるのである。

 

いちばん困ったのは、ドゥーネチカが昨年あの家に家庭教師として住みこむとき、百ルーブリというお金を前借りし、毎月の給料から差しひいて、返す約束になっていたことで、そのために、この借金の片がつくまでは、勤めをやめるわけにいかなかったことです。あの子がそのお金を受けとったのは(だいじなロージャ、いまだからすっかり説明できるのですが)、何よりまず、おまえに送る六十ルーブリを都合しようためでした。当時おまえがたいそう入用だとかで、昨年お送りしたあのお金です。あのときは、ドゥーネチカの以前の貯金をおろしたなどと噓をつきましたが、実はそうでなかったのです。でもいまは、おかげさまで、思いがけず万事が好転してきましたし、ドゥーニャがおまえをどんなに愛しているか、あの子がどんなにやさしい心をもっているかを知ってもらうためにも、すっかり本当のことを書きたいと思います。

 

(略)

 

いいですか、いとしいロージャ、実はドゥーニャがある方から申し込みを受け、もう承諾の返事もしてしまったので、とり急ぎそのことをおまえに知らせたいと思ったわけなのです。こんどのことは、おまえに相談もせず運んでしまいましたが、だからといって、私に対しても、また妹に対しても、それを根にもつことはないと思います。(岩波文庫罪と罰 』p70、77)

 

「罪? なにが罪だ?」ふいに突きあげてきた狂暴な怒りにまかせて、彼は叫んだ。「ぼくがあのけがらわしい、有害なしらみを、だれにも必要のない金貸しの婆ァを、殺してやれば四十もの罪障がつぐなわれるような、貧乏人の生き血をすっていた婆ァを殺したことが、それが罪なのかい? ぼくはそんな罪のことは考えない、それを洗い浄めようなんて思わない。どうしてみなは寄ってたかって、「罪だ、罪だ!」とぼくを小突きまわすんだ。いま、ぼくにははっきりわかったよ、ぼくの弱気がどんなにばかげたものだったか、いまやっとわかったんだ、この必要もない恥辱を受けに行くいまになって! ぼくが決心したのは、ぼくが卑劣で無能だったからだけなんだ、それからあの・・・・ポルフィーリイがすすめたように、それが有利になるからだけなんだ!・・・・」

「兄さん、兄さん、なんてことを言うの? だって兄さんは、血を流したんじゃない!」ドゥーニャは必死になって叫んだ。(岩波文庫罪と罰 』p343~344)

 

ドゥーネチカは兄の老婆殺害を罪として自首を勧めるが、しかし、ドゥーネチカ自身の「罪」への自覚は、物語の最後まで描かれないで終わっているように見える。

 

これは、そのようにドストエフスキーが意図した展開であるかもしれない。

 

良かれと思って為したことを「罪」として認めるというのは、私たちにとって容易なことではないのである。

 

女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。彼女は実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えた。(創世記3:6 聖書協会共同訳)

 

私自身も良かれと思って多くの罪を犯してきた。その中には、今なお気づいていない罪もあるかもしれない。

しかし、

もし自分には罪がないと言うなら、それは、自分のほんとうの姿から目をそらしているのであって、真理を受け入れようとしない証拠です。(ヨハネの手紙Ⅰの1:8 リビングバイブル)

 

 

 

ここの記事は、祈り会での青年の祈りをお聴きして、纏めようと思ったものです。