風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

今日のお説教、「福音には、神の義が啓示されている」(ローマ1:17)から ー ドストエフスキー『罪と罰』39

今日のお説教「恵みの再発見」(ローマの信徒への手紙1:16~17)より

キリストの十字架によって示された神の愛が悔い改めに導くのである。…。信仰も神の賜物である。

今日のお説教では、修道士時代にルターが師から教えられたこととして「本当の悔い改めは神の愛から始まる」という言葉をあげておられた。

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ここの部分を読んで、説教の中でたびたび聞いてきた「キリストの前に立つことによって、人は初めて自分の罪を知ることができるのです」という言葉を思い浮かべた。

これまで、この言葉を聞くたびに、「抽象的でなんだかピンとこないなぁ」と思ってきたのだった。それなの、ここの部分を読んで真っ先に頭に思い浮かべたのは、この言葉だったのだ。

(略)

二人の人間を殺して、「悔いる」ということができないでいるのだ。

 

そして「罪を恐れるのでなく、罰を恐れる信者」という言葉から、ドストエフスキー罪と罰を思い浮かべた。

ラスコーリニコフは罰を恐れる者ではなかった。ラスコーリニコフはシベリア流刑という刑罰を受けても罪を悔いることは出来なかったのである。

長らく私は、この「罪と罰」というタイトルが腑に落ちなかった。なんというか、陳腐なというか、安易につけられたとしか思えないタイトルだ、と。

 

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江川卓氏は、この「ふみ越える」という言葉について、解説の中で次のように記している。

この長編の題名の一要素である「罪」の原語「プレストゥプレーニエ」は「越える」を意味する「プレ」という接頭辞と、「歩む」を意味する「ストゥパーチ」という動詞の合成語から派生した名詞で、原義は「ふみ越えること」の意味なのである。ロシア語で「罪」をあらわす言葉には、このほかに、主として神の掟を破った罪を意味する「グレーフ」という名詞があるが、「プレストゥプレーニエ」のほうは、人間の定めた掟を「ふみ越えた」罪、つまり、犯罪なのである。

(中略)

 しかし何より注目されるのは、例の「ラザロの復活」の朗読直後、ラスコーリニコフがやはりソーニャに向かって言う次の言葉だろう。

 「いまにわかるさ。だってきみも、同じことをしたんだろう? きみもふみ越えた・・・・・ふみ越えることができたじゃないか」(第四部四章)

 ソーニャは自分のことを「罪の女」と呼んでいる。この「罪の女」の原語は、神の掟を破った罪を意味する「グレーフ」から派生した「グレーシニツァ」である。ということは、神を信ずるソーニャが抱いていた罪意識を、「ふみ越えた」という言葉によって、ラスコーリニコフが強引に自分の罪意識に引き寄せ、彼女を自分の「同類」にしようとしていることを意味するだろう。ここまでくれば、ラスコーリニコフの意識における「プレストゥプレーニエ」、人間の掟をふみ越える「新しい一歩」とは、たんに高利貸の老婆に対する殺人行為だけを意味したのではなく、より広範な社会的、哲学的意味、マルメラードフの言う「どこへも行き場のない」状況の中での反逆の一歩をも意味していたことが、おのずからあきらかになるだろう。(岩波文庫罪と罰 下』「解説」より)

 

ロシア語の原義から「プレストゥプレーニエ」「人間の定めた掟をふみ越えた罪」として犯罪を表しているということのようなのだが、今日のお説教をお聴きしていて、これは、人間の領域を「ふみ越えた」罪なのではないかと思った。つまり神になり代わろうとした罪、神になり代わって老婆を殺害した罪である。

 

老婆を殺害した犯罪に対してシベリア流刑という刑罰を受けても悔い改めることが出来ないでいたラスコーリニコフが、神の愛に触れた瞬間に、赦しに触れた瞬間に、自分の罪の全てを了解したということではないだろうか、と。

 

 

 当時、ルターはヴィッテンベルク大学で聖書の講義をしていた。彼は、講義しながら自分自身、赦しの確かさを求めて苦闘していた。その中でローマ1:17の聖句に行き当たった。これは、ルターの宗教改革の根本原理となった聖句である。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現される」と書いてある。ルターはこれを読んで驚いた。それまで、ルターは神の義について考えることは恐ろしいことであり、いやなことであった。逃げ出さなければならないことであった。ですから、もしローマ1:17に「裁きには神の義が啓示されている」とか「罪人の滅びの中に神の義が現れる」と書いてあって、さらに「それは、初めから終わりまでよい行いを通して実現されるのです」と記されていたら、やっぱりそうかと納得がいったかもしれない。しかし、聖書はそうは言っていない。「福音には」と言っている。福音とは、「喜びのおとずれ」であり、キリストの十字架を内容とするものである。神は義なる方であるがゆえにキリストの尊い血潮という代価を払って罪を贖い、罪人を赦された。これが福音である。(説教「恵みの再発見」より)

 

罪と罰は、「犯罪」と「刑罰」という語を用いながら、「神への罪」と「神からの恵み(赦し)」を描こうとしていたのだ!と理解した。