風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ソーニャ 2 − ドストエフスキー『罪と罰』

 「ぶったですって! 何をおっしゃるの! ああ、ぶったなんて! たとえぶったとしても、それがなんですの! だからどうだと言うんです! あなたは何も、何もご存じないんだわ・・・・・あれはふしあわせな人なんです、ええ、ほんとにふしあわせな! おまけに病気で・・・・・あのひとが捜しているのは正義なんです・・・・・きよらかな人だから、何事にも正義があるはずだと心から信じていて、それを要求するんです・・・・・どんなに苦しい目にあったって、まちがったことのできる人じゃありません。あのひとは、世の中がすべて正義だけで成り立つわけにいかないことが、自分ではわからなくて、それでいらだっているんです・・・・・まるで赤ちゃん、赤ちゃんなんです! 正しい人、正しい人なんです!」(岩波文庫罪と罰 中』)

これは、ラスコーリニコフから「あなたは、(継母)カチェリーナからぶたれようとしたこともあったんでしょう?」と問われたソーニャが発した言葉だ。

 

この台詞の前には、ソーニャについて、「もしこんな言い方ができるとすれば、いわば飽くことを知らない同情とでもいったものが、突然、彼女の顔の輪郭の一本一本にまで、描きだされたのである」と記されている。

 

カチェーリナについてのこの洞察、理解と受容、これはやはりソーニャをキリストとして描いているか、あるいはキリストに憑依された人間として描いているかのどちらかとしか言いようがないだろう、と思う。

 

この場面の後には、ラスコーリニコフがソーニャをとらえた「ユロージヴァヤ(聖痴愚)」という言葉が出てくる。

ユロージヴァヤについて、訳注には以下のように記されている。

本来は苦行層の一種で、信仰のために肉親や世間とのつながりを絶ち、常識や礼儀をさえわきまえぬ狂人、痴愚をよそおって、真実の神の言葉を説いた者をいうが、ロシアでは、このユロージヴイへの信仰が他のどの国にもまして民間に広く普及していた。いくぶん神がかった狂人や白痴をこの名で呼んで、神のお使いとして大切にした風習もあった。(岩波文庫罪と罰 中』「訳注」)

ソーニャをユロージヴァヤととらえたラスコーリニコフは、「こんなところにいたら、こっちまで聖痴愚(ユロージヴイ)になってしまう! 伝染するぞ!」と心の中で叫んでいる。

 

さて、マタイ福音書5章には山上でイエスが語った説教が記されている。

山上の説教と呼ばれるこの説教は何度聞いても理解できない、納得できないと思わされる言葉なのだが、ソーニャがカチェリーナを擁護して発するこの言葉は、ドストエフスキーがマタイ5章6節を踏まえて語らせているだろうと思われる。

義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。(マタイによる福音書5:6 聖書協会共同訳)

 

myrtus77.hatenablog.com10月30日のブログで私は、マルメラードフのこの語りからティリッヒの言葉、『神は存在の根柢である』(八木誠一『キリストとイエス』)を思い浮かべた。悲しみと涙を味わい尽くしたところで、万人に哀れみをたれ、万人を理解してくださる方を見出すのだ。そしてその時、私たちの目は、悲しみの世から『わたしはすでに一度おまえを赦した』と言ってくださる方へと転じていくのだ」と書いた。

 

これは、山上の説教すべてに通じると言えるだろう。

 

義に飢え渇いた者が、義を捜し求め、義である方の元へとたどり着くなら、その者は満たされるのである。

 

 

子たちよ、今しばらく、私はあなたがたと一緒にいる。あなたがたは私を捜すだろう。『私が行く所にあなたがたは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。」(ヨハネによる福音書13:33~35 聖書協会共同訳)

キリストに憑依されなくとも、キリストの弟子であろうとするなら、ここを目指すことだろう。