ある教会に電話をすると、「この電話は迷惑電話防止のために録音をしています」と設定された声が先ず聞こえてきた。
教会で、迷惑電話防止のために録音をするというのは、どういうことだろうか?
病む人の心の悲鳴響かせて非通知電話鳴る午前4時
睡眠は確保しなくてはいけないから、夜間の電話は鳴らないように設定するということはある。しかし教会という所は、ちょっと話を聞いて欲しいとやってきた人が2時間3時間話して最終的にお金の無心だったというようなことが一度や二度でなくある場所なのである。そういうことがこれまでに何度あったかしれない。夫は、「私もそれほど裕福なわけでないので、千円だけお貸しします。返してくだされば、次に来られた時もまた千円お貸しします」と言って、貸してきた。ある時、「あの時、お世話になった者です」と菓子折を持ってこられた方もいた。「お金を借りる代わりに何か仕事をします」と言って雪掻きをして行かれた方もいた。教会とは、そういう所のはずである。
女性が一人牧師としてやっていくというのは大変なことだろうと思う。
牧師であっても欠けも弱さも抱えた人間であることに変わりはない。誘惑に負けることもあるかもしれない。しかし、自分が守られることばかりを考えている者から、愛である神の言葉を聞き取ることが出来るだろうか。
自分を守ろう、守ろうとばかりする者の口から語られる言葉に、神の愛を感じ取ることが出来るだろうか。
愛するという行為は、自らを擲ってなされるものなのだから。
で、聞いておると、私のソーニャが(あれは口答えをしない子で、声も実にやさしいんですが・・・・・ブロンド髪で、いつも青白い、やせこけた顔をしておりますよ)、言っておるんですな。「じゃ、カチェリーナ・イワーノヴナ、ほんとにわたし、あんなことしなくちゃいけないの?」実は、ダリヤ・フランツェヴナという、警察にも何度もご厄介になっている性質の悪い女が、家主のかみさんを通じて、三度ほども口をかけてきておったんです。「それがどうしたのさ」とカチェリーナがせせら笑って答えております。「なにを大事にしてるのさ! たいしたお宝でもあるまいに!」けれど責めないでくださいよ、あなた、責めないで! あれは落ちついた頭で言ったことじゃない。気持がたかぶって、病気がひどいところへ、腹のへった子どもたちが泣きたてるなかで言ったことで、それも言葉どおりの意味というより、あてつけに言ったことなんです・・・・・(略)ですが、そのとき私は見ましたよ、学生さん、ちゃんとこの目で見たんです。しばらくすると、カチェリーナが、やはり一言もものを言わずに、ソーニャの寝台のそばへ行って、一晩じゅう娘の足元にひざまずきながら、娘の足に接吻しておるんです、そのまま立ちあがろうともしない、そのうちふたり抱きあって、そのまま眠ってしまいましたよ、ふたりして・・・・・ふたりしてです・・・・・はい(ドストエフスキー『罪と罰 上』岩波文庫p42~43)
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。(略)さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」(ルカによる福音書10:30~36 新共同訳)
さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。(ヘブル人への手紙4:14~15)
兄はひとりきりではない。彼女、ソーニャのもとへ、兄は最初に懺悔にやってきた。兄は人間が必要となったとき、彼女のなかに人間を求めた。彼女は、運命のみちびくまま、どこへでも兄の後について行くにちがいない。(ドストエフスキー『罪と罰 下』岩波文庫p350)
大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものをしなければならないのである。かつ、だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。同様に、キリストもまた、大祭司の栄誉を自分で得たのではなく、「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と言われたかたから、お受けになったのである。(へブル人への手紙5:1~5)
キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである。このことについては、言いたいことがたくさんあるが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、それを説き明かすことはむずかしい。あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。(へブル人への手紙5:7~12)
限界を持つ私たちにはキリストの後に従うことは容易ではない。しかし、その覚悟をしないまま、自分が守られることばかり考えているなら、キリストの言葉を語る資格はないと言わねばならないだろう。