風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

愛は、踏み越える ー ドストエフスキー『罪と罰』24

 『罪と罰』の冒頭に、ラスコーリニコフの下宿のある建物の門口から高利貸の老婆の家までは「きっかり七百三十歩」あると記されている。(略)つまり、ここでのドストエフスキーはほとんど瑣末なまでの「リアリズム」にこだわっているわけである。
 ところが、すでに第一部第一章の文脈の中でも、この距離をほかでもない「七百三十歩」と記し、約五百メートルとか五百何十メートルとか書かなかった理由が、別の次元からあきらかになる。この「七百三十歩」はラスコーリニコフにとってはたんなる物理的距離ではない。現に「彼の胸さわぎは、一歩ごとにますます高まっていった」とも書かれている。いや、そればかりではない。ラスコーリニコフの最初の独白に戻ってみるなら、この「一歩一歩」は、『罪と罰』の根本テーマにさえかかわる重要な意味をもっていることが知らされるだろう。
 『ふむ・・・そうか・・・人間というやつは、いっさいを手中にしているくせに、弱気ひとつがたたって、みすみすそのいっさいを棒にふっているわけなんだ・・・こいつはまちがいなく公理だぞ・・・だいたい人間は何をいちばん恐れている? 新しい一歩、自分自身の新しい言葉、それをいちばん恐れているじゃないか・・・』
 傍点を付した「新しい一歩」が、「七百三十歩」のなかの「一歩」であることは、もはや読みちがえようもあるまい。しかもこの作品では、「歩む」という動詞がさらに重要な象徴的意味をになわせられている。(略)
 ここまで言えば、この『罪と罰』という作品で、「ふみ越える」、「またぎ越える」という言葉が奇妙にしばしば、それもきわめて重要な個所で使われていることに気づく人もあるかもしれない。
(略)
 こうして長編のシンボリカも完成する。「七百三十歩」という瑣末なリアリズムが、実は全編をつらぬく哲学的、思想的、宗教的主題、つまりはドストエフスキーの文学的作品世界を支える強固な土台になっていたことが、こうしてあきらかになるのである。(岩波文庫罪と罰 下』江川卓=文「解説」より)

 

この「ふみ越える」という言葉についての「解説」は、エピローグから、ソーニャについて − ドストエフスキー『罪と罰』7でも引用して書いた。

そこで引用したのは、ラスコーリニコフとソーニャの「ふみ越え」の違いを記したものであった。

ここで引用した続きに記されている江川氏の言葉を私は略した。略した後に記されているのが、「こうして長編のシンボリカも完成する」である。

江川氏の、「宗教的主題、つまりはドストエフスキーの文学的作品世界を支える強固な土台になっていた」というのが具体的にどういうことなのかは私にははっきりとは分からない。江川氏の捉えと私の捉えが微妙に違っているようにも思える。

 

 

以下に私の「踏み越え」についての解釈を書こうと思う。

「踏み越え」という言葉から連想するのは、イエスの語ったサマリア人の譬えである。

エスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。(略)さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」(ルカによる福音書10:30~36 新共同訳)

 

私がここで連想したのは、サマリア人ではなく祭司やレビ人の方だ。

死体に触れると汚れるから触れてはいけないという掟があったので、祭司やレビ人は死にかけている人を恐れて避けて通ったのである。

祭司やレビ人は「踏み越え」ることをしなかった人々として、私に連想されたのだ。

 

もう一つ「踏み越える」から連想するのが次の言葉である。

愛には恐れがありません。(ヨハネの手紙一4:18 聖書協会共同訳)

そう、愛は「踏み越える」、のだ。

 

 

さて、略した部分の冒頭には次のように書かれている。

 ラスコーリニコフのこの不遜な企図は、長編では無残に挫折する。(『罪と罰 下』江川卓=文「解説」より)

 

では、『罪と罰』で挫折に終わった「ふみ越え」は、『カラマーゾフの兄弟』ではどのように受け継がれているだろうか。

カラマーゾフの兄弟』ではアリョーシャが修道院を出ることで「ふみ越え」が果たされる。これは、「俗世にしばらく暮らすがよい」というゾシマ長老の言葉に従ったものだった。修道院という守られた世界から出て、アリョーシャの愛が試されるのである。

 

 

ここまで書いてきて、何か思い起こされる言葉があるように思える。「踏み絵」、だ。

そして、ここに来て、遠藤周作の『沈黙』だ!

 

まだまだ続きそうな予感が・・。

 

 

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