ラスコーリニコフとカチェリーナは似通った人間だと私には思える。
どちらも自分自身が窮乏しているというのは言うまでもないことだが、どちらも自分自身のことだけを考えているというような人間ではない。むしろ子どものことや、母や妹、ラスコーリニコフに到っては行き会ったマルメラードフの家族のことまで考えて、なけなしのお金をこっそり置いてくる程である。
しかし、・・
「ソーニャ、ソーニャ!」彼女が自分の前にいるのがふしぎでならぬように、カチェリーナはやさしく、おだやかに言った。「ソーニャ、可愛いソーニャ、おまえもここにいたの?」
彼女はまた助け起こされた。
「もうたくさん!・・・・・お別れだよ!・・・・・さようなら、ふしあわせなソーニャ!・・・・・みんなでやせ馬を乗りつぶしたんだ!・・・・・もうつづかないよォ!」彼女は絶望と憎悪をこめてこう叫ぶと、枕の上にどさりと頭を落とした。(岩波文庫『罪と罰 下』p168)
これはカチェリーナの最期の言葉だ。
この「みんなでやせ馬を乗りつぶしたんだ!」という言葉は、上巻の中で描かれたラスコーリニコフの見た夢に呼応している。
私はここで、
幼年のラスコーリニコフは馬を殺す人間の側には入っていないのだ。罪は他の人間の側にあるのである。自分を罪の外に置いている。この時点では、ラスコーリニコフにとって罪とは自分以外の人間のもの、ということだ。
と書いた。
しかしカチェリーナは、ソーニャの背中を自ら突いて娼婦へと押しやったために、罪を自覚している。
だから、「カチェリーナにとっては、ソーニャにたいする侮辱は、彼女自身や、あるいは彼女の子どもたちや、お父さまにたいする侮辱よりも、はるかにこたえるものであった。つまり、致命的な侮辱なのである」(『罪と罰 下』p64)と記されているのである。
「ええ? 坊さん?・・・・・いらないよ・・・・・そんな余分なお金がどこにあるんだい?・・・・・わたしにゃ、罪なんかないからね・・・・・神さまは、でなくたって、赦してくださるはずだよ・・・・・わたしがどんなに苦しんだか、ご自身でちゃんとご存じだよ!・・・・・もし赦してくださらなくたって、それでかまやしない!・・・・・」(『罪と罰 下』p165)
カチェリーナの自覚は、キリストに対して犯した罪として直接キリストへと向かうところから来ている。しかし、ラスコーリニコフの犯した罪は一見キリストと無関係のように見えるため、なかなかキリストへと向かわない。それ故、なおラスコーリニコフは苦しまなくてはならない。
「ちがう、ちがうわ、ここへ来て、よかったのよ!」ソーニャが叫んだ。「わたしが知っていたほうがいいの! ずっといいの!」(『罪と罰 下』p122)
(中略)
「苦しむことになるわ、苦しむことに」彼女は絶望的な祈りをこめて彼のほうに手を差しのべながら、くりかえした。
(略)
「そんな苦しみを背負ってゆくなんて! それも一生、一生涯・・・・・」
(中略)
五分ほどしてから彼は顔をあげ、奇怪な微笑をもらした。ふしぎな考えが浮かんだのだ。『もしかしたら、懲役に行ったほうが、ずっとましなのかもしれない』ふいにこんな考えが頭をかすめた。(『罪と罰 下』p146)