風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

立ちてをり

花合歓の眠れる如く立ちてをり無力の淵に佇つといふこと

立ちてをり大斎原の大鳥居大洪水の記憶むなしく

まなこ                     しじま
眼黒々一頭の牛立ちてをり牛飼ふ人の時の静寂に

ふふまれぬままに落ちたる赤き実の枝に無きまま林檎は立てり

        ベル
鳴るはずのWedding bell鳴らぬまま立ちてをり福島第一教会の塔


この五首のうち掲載されたのは二首目だけだった。
二首目の短歌が採られたというのはどういうことだろう?
それはたぶん、私が昨年の台風で大きく被害を受けた地方に住んでいる者だったからだと思う。つまり私は当事者であり、「私性」というものを大きく打ち出す短歌にとっては当事者であるということが大きいからだ、と・・。
けれど、私がこの五首を作ろうと思ったのは、原発で立ち入り禁止区域となった地に建つ福島第一聖書バプテスト教会のことを知ったからであり、歌の中で詠みたかったのは、口にされることなく捨てられた林檎のことであり、黒い眼を持ったまま彷徨い続ける牛達と牛達を置いて去らなければならなかった牛飼い達のことだったのだ。
言わば、この二首目は、五首一連を仕上げるために付け足しで作ったような短歌なのである。この一連は、一首だけ選んでくださるのであれば私としては三首目を選んでいただきたかった、そう思う一連なのだ。

もはや原発に関することは私達にとって他人事ではないのである。この日本に、否、この地球上に住み続ける以上、私達と私達の子孫は原子力の脅威に曝され続けていくのであり、当事者であり続けていくのだから。


ところで、葛原妙子にこんな短歌がある。

木立の家に無數の壜の立てるなれ 立つとふこといかにさびしき 『葡萄木立』
葛原妙子の短歌を本歌にする等とても恐れ多いのだけれど、この一連を作っている間中、私の中で、「立つとふこといかにさびしき」ーこのフレーズがいつも鳴り響いていたのだった。


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