風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「汚れた霊に取りつかれた人」 (マルコによる福音書5:1~20)

 「汚れた霊に取りつかれた人」 (マルコによる福音書5:1~20)

 

  2023年12月31日(日) 降誕節後第1主日

聖書箇所:マルコによる福音書  5章1節~20節

 

  今日は1年の最後の日、大晦日になります。あわただしいこの日も神さまに守り導かれて、教会に呼び集められました。今日も聖書の言葉に耳を傾けていきたいと思います。今日の聖書の箇所は、11月5日に○○長老が説教代読していただいた箇所の続きになります。

 

 ガリラヤ湖畔で舟の上から大勢の人々に語られたイエスは、夕方になって「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われました。向こう岸というのは、ガリラヤ湖の東側です。そこは異邦人の土地、ゲラサ人たちの住むところでした。イエスは「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(1:38)と言って巡回しておられました。 一行は嵐に遭い、沈みそうになりましたが、嵐を静めるイエスの大きな力によって湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着きました。

 すると、イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来ました。この人は墓場を住まいとしており、もはや誰も、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできませんでした。これまでにも度々足枷や鎖で縛られましたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、誰も彼を縛っておくことはできませんでした。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいて自分を傷つけていました。

 その彼がイエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫びました。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」

 なぜなら、イエスが「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからです。

 

 汚れた霊は、わたしたちを神から引き離し、神に背く者とします。

 聖書の聖、聖霊の聖、この聖という言葉は、神のものであることを表します。それに対して汚れは、神のものとならないことを表します。汚れた霊は、わたしたちを神から引き離し、神に背く者とし、わたしたちが汚れた存在、神のものとはならない者にしようと導きます。

 その結果は、人々と一緒に生きることができず、滅びの現れるところに住み、苦しんで叫び、自らを傷つけていく状態に陥ってしまいます。

 

 わたしたちの社会も異邦人の土地です。汚れた霊が力を振るっています。豊かさはありますが、社会は病んでいます。人々は共に生きることができず、絆はどんどん消えていきます。毎日報じられるニュースは、滅びが次々と現れていることを告げています。苦しみの叫びは止まず、自らをどんどん傷つけていく。しかし、神の働きに対して「構うな。関係ないだろ。苦しめるな。」と叫びます。

 

 イエスが「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と答えました。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願いました。

 レギオンというのは、6,000人にものぼるローマ帝国の一軍団を表す言葉です。百人隊、千人隊と呼ばれる部隊が集まって構成される一軍団です。ここでは、軍団のような大きな破壊的な力を持ち、軍団としては一つでも、一人ひとりの思いや欲望はバラバラで、しばしば統率がとれず問題を引き起こす混乱を表しています。罪がもたらす破壊と混乱を示すものです。

 

 ここでは、本人も、本人の中にいる汚れた霊も共に癒されたいとは願っていません。

 しかし、願わなくても、主は救いの業をなさる。わたしたちが願う前から、主はわたしたちを求め、救いの業をなしてくださいました。

 自分を振り返ってみても、この罪の破壊と混乱の中にいます。救いなんて願いもしていません。

 

 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていました。汚れた霊どもはイエスに「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願いました。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもはその人から出て、豚の中に入りました。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んでしまいました。

 旧約の規定では、豚は汚れているものです。食べることを禁じられています。ここは異邦人の土地ですから豚が飼われています。そして湖は、嵐が人を飲み込んでしまう混沌の象徴。汚れた霊が、汚れた豚を犠牲にして、混沌の象徴である湖の底へ帰っていくことを示しています。次々と湖に飛び込む豚は、汚れた霊に取りつかれていた人が自分の内から霊が出ていくのを実感する出来事でした。

 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせました。人々は何が起こったのかと見に来ました。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、何事があったのかと恐ろしくなりました。そして、成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語りました。すると、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだしたのです。

 

 誰もこの男が癒されたことを喜びません。彼よりも豚が大事。損害をもたらすイエスには出て行ってほしい。イエスは迷惑。イエスの業を見ても誰もイエスを受け入れません。

 しかし、イエスはこの男を癒すために湖を渡られました。

 ただ一人の人を癒すためにイエスは来られました。

 

 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願いました。イエスはそれを許さないで、こう言われました。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(5:19)その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めました。人々は皆驚きました。

 

 男の願いとは違う務めをイエスは与えられました。

 イエス自身がやって来て癒しの業をしたのに、癒された男以外は誰もイエスを受け入れませんでした。数の上から見ると、宣教は失敗だったかのように見えます。

 しかし、イエスに救われ、イエスに務めを与えられた者が務めを果たし始めると、イエスが来てくださったこと、イエスがなしてくださったことの大きさが分かるようになります。

 

 この男を求められた主は、わたしたち一人ひとりをも求めておられます。

 わたしたちに出会い、わたしたちを救うために礼拝に導いてくださっています。

 イエスに出会い、イエスに関わって頂くとき、わたしたちは汚れた霊から解放され、罪のもたらす破壊と混乱から救いだされるのです。主の御名を誉め称え、救いを述べ伝える者となります。

 

 わたしたちの救いは、たった一人のためであっても、嵐を越えて来てくださるお方、どこまでもこのわたしに関わってくださるイエス・キリストにあるのです。

 

以下は長老の祈り

 天にいらっしゃいます神さま、わたしたちがまだ神さを知らない時から、わたしたち一人ひとりを覚えてくださり、汚れた罪の中を生きるわたしたちのところに神さまの方から来てくださいました。そして救いの中に導き出してくださいました。そのことを思いまことに感謝いたします。

 これからも神さまの救いの中を歩んで行くことが出来ますように守り導いてください。

 この小さな祈りを、主イエス・キリストの御名によりましてお献げいたします。

 アーメン

 

夫への手紙

この前の日曜に代読して頂いた説教もとても良かったです。

○○長老が力を込めて代読して下さいました。

抜粋して届けます。

 しかし、イエスはこの男を癒すために湖を渡られました。
 ただ一人の人を癒すためにイエスは来られました。

 わたしたちの救いは、たった一人のためであっても、
 嵐を越えて来てくださるお方、どこまでもこの私に
 関わってくださるイエス・キリストにあるのです。

 

 

先週の花。