風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「真実と信頼を注ぎ続けてくださる主」(ホセア書12:1~15)

「真実と信頼を注ぎ続けてくださる主」(ホセア書12:1~15)

 ホセアが預言者として働いたのは、北イスラエル王国が滅亡を迎えようとしていた時でした。イスラエル民族は、ダビデ・ソロモンという王が立てられたとき、栄えましたが、その後、北イスラエルと南ユダに分裂し、時には同じ民族同士で争うこともありした。

 

「エフライムは偽りをもって、イスラエルの家は欺きをもって、わたしを取り巻いた。ユダはいまだに神から離れてさまよい、偶像を聖なるものとして信頼している。」

 エフライムというのは北イスラエルを指す名称です。北イスラエルも南ユダもこの時神から離れて歩んでいました。神がイスラエルを神の民として選び、導いてこられたのは、神と人との間に、そして人と人との間に真実と信頼を取り戻すためでした。けれども、イスラエルは偽りと欺きをもって神に応えました。偶像を聖なるものとして崇め、自分たちを救い出してくださった神を捨てました。

 

「エフライムは風の牧者となり、一日中、熱風を追って歩く。欺瞞と暴虐を重ね、アッシリアと契約を結び、油をエジプトへ貢ぐ。」

 イスラエルはどうして自分たちを救い、導いてこられた神を捨てたのでしょうか。

 彼らは、神と共に生きるよりも、この世の力と富とを持って生きることを望んだのです。

 彼らは、風を追いかけるようにこの世の力と富が流れ、集まる所を追い求めました。自分に与えられた知恵と力を欺瞞と暴虐のために用い、アッシリアが有力と思われれば、アッシリアと契約を結び、エジプトが有利と見れば、油を貢いでエジプトに取り入ろうとしました。

 

「主はユダを告発される。ヤコブをその歩みにしたがって罰し、その悪い行いに報いられる。ヤコブは母の胎にいたときから、兄のかかとをつかみ、力を尽くして神と争った。神の使いと争って勝ち、泣いて恵みを乞うた。神はベテルで彼を見いだし、そこで彼と語られた。主こそ万軍の神、その御名は主と唱えられる。」

 神はイスラエルの先祖であるヤコブの名を挙げて語られます。ヤコブの名前が挙げられたのは、彼が生まれながらに求める思いが強く、兄の足を引っ張り、この世での力を得ようとする男で、今のイスラエルの姿と重なるものがあるからです。

 ヤコブは神の訓練によって故郷を去らなければならなくなりました。そして、ヤコブがその訓練の最後のとき、つまり故郷に帰る直前に神の使いと争うという出来事が起こりました。記されているとおり、ヤコブは神の使いに勝利しました。けれども彼は泣いて恵みを乞い求めました。

 ヤコブはその訓練の時の終わりに、彼の持っている罪、求めること、掴み取ること、勝利しようとすることが本当の祝福を自分にもたらさないことを知らされたのです。

 

 神に勝利するということさえ人生において、生きるということにおいて何の意味も持たないのです。わたしたちを顧み、見いだしてくださる神と出会うこと、語らうこと、共に生きていくこと、ここにわたしたちの本当の幸いがあるのです。

 神は、ヤコブが故郷を離れて旅に出る最初の時に、実はそのことを示されました。

 「神はベテルで彼を見いだし」とありますが、ベテルというところは何もないところでした。ただの荒れ野にすぎないところでした。ヤコブは家を離れ、力も富みも何も持っていませんでした。まったく何もないところで、神はヤコブを顧みられたのです。

 力があるから、富があるから、能力があるから、人柄がいいから神は顧みてくださるのではないのです。何かがあるからではなく、愛するがゆえに、神はわたしたちを顧みてくださるのです。何かがないことが問題ではないのです。何もなくてもわたしたちを愛し、求めてくださる神と共にあるかどうかが問題なのです。

 

 神はわたしたちを呼び求めておられます。「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め。」

 しかし、人は神を侮るのです。「商人は欺きの秤を手にし、搾取を愛する。エフライムは言う。『わたしは豊かになり、富を得た。この財産がすべて罪と悪とで積み上げられたとはだれも気づくまい。』

 人間の知恵は、絶えず神を軽んじ、侮ります。けれども、神は人の侮りにも関らず、イスラエルを愛し、救おうとされます。

 

「わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしは再びあなたを天幕に住まわせる。わたしがあなたと共にあった日々のように。」

 神はイスラエルの偽りと欺きに対して、どこまでも信頼と真実を注がれました。

 

「わたしは預言者たちに言葉を伝え、多くの幻を示し、預言者たちによってたとえを示した。」

 イスラエルが自らの罪を追い求めていた間、神は絶え間なく、真実の言葉を携えた使者を送り続けられました。神は預言者たちを通して真実を語られ、預言者の言葉によって、その民をエジプトでの奴隷状態から約束された自由へと導き出されました。

 

「主は一人の預言者によってイスラエルをエジプトから導き上らせ、預言者によって彼らを守られた。」

「エフライムは偽りをもって、イスラエルの家は欺きをもって、わたしを取り巻いた。」

 罪人は偽りと欺きとをもって神を取り囲みます。しかし、神はその罪人を愛と真実をもって囲むのです。

 ギレアドもギルガルも信仰的に廃墟と化すとも、神はたった一人の男を荒れ野で守り、試練の中を導かれたように、また、たった一人の預言者によってイスラエルを救い出されたように、神はこの世が頼りとする力の大きさ、数の多さ、富の豊かさを打ち破って救いを打ち立てられるのです。

 

 真実と信頼に背を向け、偽りと欺きを求めていったイスラエルの上に神の裁きが下されます。

「エフライムは主を激しく怒らせた。主は流血の報いを彼に下し、その恥辱を彼に返される。」

 罪人は、偽りを真実だと信じようとします。自分が求めていたものが一体何を自分にもたらすかを自分で知らないと分からないのです。イエス・キリスト「見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書20章29節)と言われましたが、罪の悲惨さを自らの目で確かめることなく、神の言葉によって知る人は幸いなのです。

 イエスは言われました。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネによる福音書8章32節)

 神の言葉こそ真理であり、わたしたちを本当の自由、大いなる喜びへと導くのです。

 今、神の言葉が聞こえる人は幸いです。今、神の言葉に心を開く人は幸いです。

 神は今言われます。「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め。わたしこそあなたの神、主。エジプトからあなたを導き上った。わたしは再びあなたを天幕に住まわせる。わたしがあなたと共にあった日々のように。」

 

父なる神様。

あなたはわたしたちを救うために真実と信頼を注ぎ続けていてくださいます。けれども、子どもが悪をなした時、親が叱るように、あなたは罪に溺れる者を裁きをもって救い出されます。わたしたちがあなたの御言葉によって真実を知ることができますように。裁く悲しみをあなたに負わせず、裁かれる痛みを身に負うことがないよう、あなたの霊によって目覚めさせてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 

今日代読して下さった長老は原稿をサイトに載せられないようですので、元の夫の原稿を掲載します。

代読して下さった長老は、「どうしても理解できない箇所があったので、すみません、その部分を省略させて頂きました」と礼拝の前に伝えて下さったのだが、別の箇所で私が理解できないでいたところを言葉を補って語って下さった。

私は、「風の牧者となり、一日中、熱風を追って歩く」という部分が原稿を読んだ時点ではしっくり理解できないでいたのだが、この部分に、長老は、「風を追うとは、空しいものを追い求めるということだと思います」という一文を補って下さった。

それで理解できた。

 

そう言えば、「伝道の書」にそういった言い回しがあった。

わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく風を追うようなことであった。(コヘレトの言葉1:14)

 

 

新しい薔薇を加えて・・。