風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ムンクの『接吻』から - ドストエフスキー『罪と罰』

『叫び』で有名なムンクに、「吸血鬼」や「接吻」というタイトルの絵がある。

『接吻』と名付けられている絵は、接吻をしている男女の境界がほとんど溶解しているように見える。

 

そして柩のなかには、花に埋まるようにして、絹レースの純白の服を身につけ、大理石を彫ったような両手をしっかりと胸に組んで、ひとりの少女が横たわっていた。しかし、少女の乱れた髪、明るいブロンドの髪は、ぐっしょりと水にぬれていた。ばらの花冠が少女の頭を飾っていた。すでに硬直したいかつい横顔も、やはり大理石で彫りあげられたようだったが、少女の青白い唇に浮かんだ微笑には、どこか子どもらしくない、かぎりもない悲しみと、深い哀願とがあふれていた。スヴィドリガイロフはこの少女を知っていた。聖像も、燈明も、この柩のかたわらにはなく、祈禱の声も聞こえなかった。少女は、川に身を投げた自殺者であった。やっと十四歳になったばかりだというのに、この少女の心はすでに破れ、傷つき、みずからに手をくだしたのだった。陵辱がこの心をけがした。陵辱が、このおさな子の意識を恐怖と驚きにおののかせ、天使のように清純なその魂をいわれのない羞恥心で満たし、だれに聞かれることもない、無惨にはずかしめられた絶望の最後の叫びを彼女からもぎとったのである。(岩波文庫罪と罰 下』p320~321)

 
罪と罰』の中で、陵辱によって自殺した少女についてドストエフスキーは、「陵辱がこの心をけがした。陵辱が、このおさな子の意識を恐怖と驚きにおののかせ、天使のように清純なその魂をいわれのない羞恥心で満たし、だれに聞かれることもない、無惨にはずかしめられた絶望の最後の叫びを彼女からもぎとったのである」と描いたが、「羞恥心で満たす」というよりも、幼い場合は、陵辱によって「自己を失う」のではないかと私は思う。

 

一時、精神に変調を来したムンクが、『吸血鬼』や『接吻』で表したものは、自己の喪失であろう。

 

恋愛や性交は、幼い者にとっては、自己を見失わせる力を持っていると思える。