恵み深い父なる神よ、わたしたちがなお罪人であったとき、主はまずわたしたちを愛して、わたしたちのために十字架につき、肉をさき、血を流して、罪の贖いを成しとげてくださったことを感謝します。どうかいま、わたしたちに、主の愛と苦しみとを深く覚えさせてください。主の裂かれたからだと、流された血とにあずかることによって、罪の赦しの恵みと、よみがえりの生命とを確かにしてください。また、み前にあるわたしたち一同を、主イエス・キリストにおける一つの交わりにあずからせてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
これは、聖餐式の式文の中に記された配餐の前に祈られる「祈り」である。
この祈りをもう何十年も聞いてきたのだが、この中の「主の愛と苦しみとを深く覚えさせてください」の「苦しみ」という言葉が、烈しく私をとらえた。
ドストエフスキーの日記には次のように記されている。
「そこで人間はたえず苦悩を感じていなければならず、その苦悩が、掟の守られた天上のよろこび、すなわち犠牲と釣合うのである。ここにこそ地上的な均衡がある。でなければ、この地上は無意味になるだろう」
この日記の言葉は、江川卓氏が解説で書いている『罪と罰』の主題の土台となっていると考えられる。「苦しみによるあがない」という主題である。
この「苦しみ」は、キリストの十字架の「苦しみ」でなければならないだろう。
キリストの「苦しみ」に与る時に、「苦しみ」は「あがない」となるのである。
だからこそ式文の中でも、「主の愛と苦しみとを深く覚えさせてください」と、「愛」と共に祈られるのだ。