今日お聴きしたお説教を以下に抜粋引用させて頂く。
次に、「愛のために労苦する」という言葉です。愛という言葉に能動的な労苦するという言葉が組み合わさっています。
なお、この愛という言葉は人間同士の恋愛などで使われる愛のことではありません。また、この愛は決して見返りや報酬のために愛するということでもありません。このパウロの言う愛という言葉はキリスト者にとっては特別な意味があります。
この愛はイエス・キリストが罪人のために十字架で死んで復活されたという御業によって示された愛の内に見ることが出来ます。
この愛は何らかの価値ある者に対する愛ではなく、いわば何の価値のない、何の取り柄のない者に与えられる愛です。
しかもその様な者に与えることを求めてやまない神さまの愛であります。
神さまがそんなにも人を愛する理由は、人に愛するだけの何らかの価値があるからではなく、神さまがその様にする性質の方であるからだ、としか言いようがありません。人を愛することが神さまの本性であるのです。
人は神さまの性質を知り、十字架にかかってまで人を愛して下さっておられることを知ったのであるなら、やはり人は決めなければならないと思います。
神さまの愛に身を委ねて新た造り変えられ、神の似姿に再創造されて、そして神さまが人々を愛するように、人を愛し、人に仕える者となるのか、そうならないか、何れかを選んで決めるという行動をしなくてはならないと思います。
言い換えれば、罪を赦されることを求めるのか、求めないのか、あるいは、神さまの愛のある状態を求めるか、それとも神さまの愛のない状態に自分を置くことを求めるか、という選択であると言えます。
当然、パウロは、神さまの愛に身を委ね、神さまの愛に応答して、そして誰もが神さまの愛によって新たに造り変えられ、喜んで神さまと人に仕える者となるということを願っています。
そして、実際にテサロニケ教会の信徒たちがパウロの願いどおりになっているので、そのことをパウロは神さまに感謝しているのです。
また、これは隣人を自分のように愛する、ということの実践です。主イエスがなさったように人の隣人となり重荷を共に負うことでありますので、労苦を伴うのであります。(説教「信仰、愛、希望」(テサロニケの信徒への手紙一1:2~4)より抜粋)
「人は神さまの性質を知り、十字架にかかってまで人を愛して下さっておられることを知ったのであるなら、やはり人は決めなければならないと思います」
「何れかを選んで決めるという行動をしなくてはならないと思います」
「神さまの愛のある状態を求めるか、それとも神さまの愛のない状態に自分を置くことを求めるか、という選択であると言えます」
このお説教のこの部分をお聴きして、自分の書いた過去記事を思い起こした。
清水書院の『カール=バルト』にしろこの本にしろ著者のバルト解釈を通ったものであるし、私自身は『教会教義学』も何も読んでいないからはっきり言い切ることは出来ないが、この考えには、「罪」を忘れ去らせる「魔力」が潜んでいるように思われる。
そしてバルトのように考えるなら、キリストによる罪からの贖いは必要ないということになる、と思える。
創造の時に神が与えられたのは「善と悪のどちらをも選ぶことができるという意味での自由」だったのだ。そうでなければ本当の自由とは言えないだろう。そして、アダムは罪に堕ちたのだ。アダムが罪に堕ちて、そこから死が全人類に入り込んできたのだ(ローマ人への手紙5章)。
バルトの言うような「ただ善へと向かう自由」というのは、キリストに出会って、キリストによって罪から贖われたことを知った者のみが持ちうる自由なのだと私は考える。そのためにも「原罪」は外せないだろう。「原罪」を否定すれば、救われる意味がなくなるのだから。
長く、「罪」の方にばかり目を向けてきた。
長く無力であるところにばかり留まり続けてきた、そう思う。
しかし、「愛のために労苦する」ことを選び取って生きて行きたい、と思わされた。
○○は食堂の定食を食べ始めてからまたちょっと具合が悪くなりました。
でも、これまでも何度も治してきましたから、また必ず元に戻してみせます。