キリストの復活は、単に魂が肉体から離れて行ったというのではなく、体をもって復活された。福音書は、どれもキリストが葬られた墓がからであったと記している。また、復活された主イエスが、復活を疑う弟子のトマスに向かって「さわってみなさい」といわれたし、他のところではあえて魚を口にされ、地上のみ体とは違った霊の体ではあるが、体をもった復活であることを示された。パウロは、このような復活がわたしたち信仰者の復活であることを言っているのである。
体というのは限界を抱えていて、苦しみの根源だと考えていた。
梨木香歩の『西の魔女が死んだ』には、おばあちゃんのこんな言葉が語られている。
「それに、身体があると楽しいこともいっぱいありますよ。まいはこのラベンダーと陽の光の匂いのするシーツにくるまったとき、幸せだとは思いませんか? 寒い冬のさなかの日だまりでひなたぼっこしたり、暑い夏に木陰で涼しい風を感じるときに幸せだと思いませんか? 鉄棒で初めて逆上がりができたとき、自分の身体が思うように動かせた喜びを感じませんでしたか?」
イースターの礼拝で、上掲のお説教をお聴きした時、私たちはもっと喜ばしい体を持って復活するのだと思わされた。