夢の中で行ったとこから帰るとこもうすぐさめるさめたら帰る
『月刊日本』2月号の山崎行太郎氏の「江藤淳の『成熟と喪失』を読む」を読んでいて、芥川龍之介の『トロッコ』を思い浮かべた。
芥川龍之介のものは、小学校高学年頃に、『羅生門』や『杜子春』、『蜘蛛の糸』や『鼻』などを読みあさった記憶があるが、中学の教科書に載っていた『トロッコ』ほど心を揺さぶられることはなかった。
だから私の中では、芥川龍之介と言えば、『トロッコ』なのである。
私は、今でも時折、水辺を歩いてどこかに行こうとしていて、途中で帰れないでいるという夢を見ることがある。
さて、山崎氏は「月刊日本」に連載しておられるこの評論の中で、江藤淳『成熟と喪失』の上野千鶴子氏の「解説」を引用しておられる。
この上野氏の二箇所からの引用、「時代の自画像を写しだす・・」や「時代が強いられる成熟を、取り返しのつかない「母の崩壊」の物語として描くことで、同時代の文学テクストを扱いながら、作品論を超えた文明批評に達している」の中に複数回表れる「時代」という言葉や「文明批評」という言葉から、上野氏の解説は、山崎氏が捉えている江藤淳の文芸評論の本質とは逆行してしまっているように思われた。
人間存在の本質は、時代がどのように変わろうとも、どの国に生まれ生きようとも変わらない、と私は思う。生まれては死んでいくというこの一点において。