風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

死と生ー宗教改革者ルターから学ぶ


夢の中で行ったとこから帰るとこもうすぐさめるさめたら帰る


昨日の午後は、地区の合同研修会でお呼びした先生から、「死と生ー宗教改革者ルターから学ぶ」という題でお話をお聞きした。

ルターは非常に死を恐れた人だったそうだが、死の中に、神の怒りと罪に対する罰を見ていたのだという。そうお聞きして、私は、ルターという人はキリスト教世界の人だったのだ、と思わされた。
私もごく小さい頃から死を恐れていた。祖父の昔の家の中での光景だから、小学生の頃だったと思う。低学年位の頃から家族が寝静まった中、一人眠れないまま「いつか死ぬ」ということを考えていた。「いつかみんな死ぬんだ」「死ぬってどういうことだろう」「私がいなくなってしまうんだ」「今はこんなことを考えていても、こんなことを考えている私もいつかいなくなるんだ」ーそのことが、ひたすら怖ろしかった。
けれど私の中には、「神」というものは思い浮かばなかった。「神の怒り」や「神の罰」としての死への恐怖というものは、尚更。日本でも閻魔様とか、地獄に落ちるというような発想は似たものとしてあるのかもしれないけれど、「閻魔様」などという単語を出されてもピンと来ない。


講師の先生は、ルターの『死への準備についての説教』詩篇90篇講解 生と死について』を中心に話された。
色々興味深かったのだが、中でも、詩篇90篇17節の講解で、栄光に輝く神を示すとはどういうことかを記した部分が最も興味深かった。

「我々の神、主の恵みを我々の上にあらせ、我々の手のわざを我々の上に確立し、我々の手のわざそのものを確立したまえ」(詩篇90篇17節)
「わたしたちの神、主の喜びがわたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きをわたしたちのために確かなものとし わたしたちの手の働きをどうか確かなものにしてください。」(新共同訳)

これは神ご自身が栄光を持つことを願うのではなく、神が我々に対して喜ばしく栄光に輝き、歓喜をもって臨まれることを求めるもの。そしてそれを確信するとき、神は我々を喜ばれる。(詩篇90篇17節講解より)


これをお聞きして、ウエストミンスター小教理問答を思い浮かべた。
問1 人のおもな目的は、何ですか。
答え 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

私たちが神を喜ぶのと、神が私たちのことを喜ぶということで、真逆になってる。「栄光に輝く神を示す」という点では、ルターの方が上を行っているように思えた。
それで、ルターの教理問答はどういうのだろうと思い、夫に書庫から持って来てもらい、今手元に置いてある。う〜ん、なんかちょっと異質な感じで、すぐには読めそうにないのだけど・・。


昨日一日こんなふうに終わったせいか、今朝、夢から覚めて、上のような短歌擬きが頭の中に浮かんだのだった。
私はあまり夢は見ない方なのだが、見るとなると、どこかに行って帰ろうとしているというような夢を見る。ここへはどうやって来たのだろう?と考えているところで、目が覚めてきて、考えなくてもいいんだ、これは夢なんだ、夢から覚めれば帰っているんだ、と思うのだった。