ホセアという人は、紀元前8世紀、今から2700年ほど昔、北イスラエル王国で預言者として生きた人です。
当時、神の民イスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国とに分裂していました。ホセアが働いた北イスラエル王国は、紀元前722 年アッシリアによって滅ぼされました。ホセアはこの北イスラエル王国が滅びる時期に預言者として働きました。
北イスラエルはこの時代、繁栄していました。周囲の国々の軍事的な状況の中で、北イスラエルは平和を得ていました。しかし、豊かで平和な毎日の中で、北イスラエルは神から離れ、堕落していきました。
預言者は言葉を預かると書きますが、神から言葉を預かって語るだけでなく、神の言葉を語り、また神の言葉を証して生きる神の使者です。
ホセアはあまり有名な預言者ではありません。おそらく預言者と言えば、イザヤやエレミヤが思い起こされることでしょう。しかしながら、わたしは牧師として○○○伝道教会に遣わされてから今までこのホセア書の言葉に励まされ、慰められて歩んでまいりました。
ホセアは、預言者として神に選ばれ、特に神の愛を伝え、証しする務めを与えられました。ホセア書3章の1節からのところにこう記されています。
「主はわたしに言われた。「あなたは再び行って、イスラエルの人々が他の神々に転じて、干しぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せられるように、姦夫に愛せられる女、姦淫を行う女を愛せよ」と。そこでわたしは銀15シケルと大麦1ホメル半とをもって彼女を買い取った。」
神の民イスラエルが真の神を捨て、人間の作った偶像のもとに走り、罪を犯しているにも関わらず、神がイスラエルを愛されていることを証しするために、ホセアは、自分を捨て、姦淫を行っている女のために代価を支払い、彼女を自分の妻として買い取ったのです。ホセアは、神の愛がどういうものか証しをするために、罪ある者を愛することを神から委ねられたのです。
わたしは、自分はもっと愛することができる人間だと思っていました。結婚をし、○○○教会に牧師として赴任するまではそう思っていました。家族に対しても教会に対しても、愛することができると思っていました。しかし、それは大きな誤解でした。わたしは、愛するということがまるで分かっていませんでした。今は分かったということではありません。どれほど分かったのかは定かではありませんが、つい最近までまるで分かっていなかったように思います。
神の愛に生きるということは、人間の思いからすれば、極めて不合理なことです。「そんなことをして何の得になるのか」などとこの世の価値観で考えてしまうと、何の価値も見出せないものです。ホセアにしても、自分を捨てて、姦淫をしている女に代価まで支払って妻として連れ戻すことに、何の価値があるのか、と問われれば、答えに窮してしまいます。しかし、神は罪人を愛されるのです。
ホセアは、銀と大麦とを支払って妻を買い戻しました。そして、この事をホセアに命じられた神は、わたしたち罪人を買い戻すためにご自分の独り子を差し出されました。ホセアが命じられたことの先には、神の独り子イエス=キリストの十字架が立っているのです。
紀元前722 年、北イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされました。預言者ホセアの悔い改めの言葉にも関わらず、人々は罪から離れようとせず、自ら滅びの中に突き進んでしまいました。
人々は、神に頼らず、自分たちを滅ぼすことになるアッシリアを頼りとしていました。馬をはじめとする軍事力に頼っていました。自分たちがなす業を頼みとし、自分の手の業を神としてしまいました。この世の豊かさとこの世の力を頼みとして、滅んでいきました。人々は、すべてを失いました。
そのすべてを失った神の民に向かって語られるのが、きょうの14章の御言葉です。
「イスラエルよ、あなたの神、主に帰れ。あなたは自分の不義によってつまずいたからだ。」神は、ご自分の言葉を軽んじ、罪の報いを身に招いた者たちに対して「それ見たことか」とは言われません。すべての事柄を通して「わたしの許に帰ってきなさい」と呼びかけられます。
「わたしは彼らのそむきを癒し、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。わたしはイスラエルに対しては露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張り、その枝は茂りひろがり、その麗しさはオリブの木のように、そのかんばしさはレバノンのようになる。彼らは帰って来て、わが陰に住み、園のように栄え、ぶどうの木のように花咲き、そのかんばしさはレバノンの酒のようになる。」「あなたに答え、あなたを顧みる者はわたしである。」「あなたはわたしから実を得る。」
これが、自分の罪で傷つき、倒れている者に対する神の言葉です。
神は、罪人を「喜んで愛する」と言われます。神にとって、自らの罪のため倒れているイスラエル、そしてわたしたちを愛することは、喜びなのです。どうしても罪から離れなくて倒れてしまったから仕方なくて愛するのではなくて、神にとって愛することは喜びなのです。そして、この神の喜びは誰にも止めることはできません。
愛するということは、共に生きることであり、自分自身を相手に与えていくことです。
例えば、愛する者が病に倒れたとしたら、わたしたちは自分の時間・体力・お金、いろいろなものを与え、回復を祈り、共に生きようとします。
神は、預言者を通して常に語りかけ、神の民といつも共に生きようとしてくださいました。そして、ついには御子イエス=キリストが人となってこの世に来られ、まさしく罪人と共に生き、罪人が負うべき怒りをすべてその身に負われ、わたしたちから離れ去らせ、何の恐れもなく神の愛を受けられるようにしてくださいました。
罪人を「喜んで愛する」という神の言葉は真実でした。そして、この言葉は今も真実です。
2700年という実感の湧かないような長い時を貫いて、空しくなることなく神の言葉は真実であり続けるのです。そして、神は今も「あなたに答え、あなたを顧みる者はわたしである」「あなたの神、主に帰れ」と呼びかけておられるのです。
ホセアは、イエス=キリストの降誕、そして十字架を知りませんでした。けれども、ホセアは惜しみなく愛を注がれる神を知っており、ホセア自身その神に愛を注がれて預言者として歩み続けてきました。
神学校には説教演習という授業がありますが、わたしに与えられた最初の説教の箇所はホセア書でした。それ以来、ホセアの神の愛に生きる姿に圧倒され、憧れてきました。
しかし、大きな間違いをしてきました。わたしが目を向けなければならないのは、ホセアではなく、ホセアが常に目を向けてきた方、ホセアを守り、支え、導いてこられた方、罪人を喜んで愛し、その愛を惜しみなく注ぎ続けてくださる神ご自身にこそ目を向けなければならなかったのです。
「わたしはイスラエルに対しては露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張り、その枝は茂りひろがり、その麗しさはオリブの木のように、そのかんばしさはレバノンのようになる。彼らは帰ってきて、わが陰に住み、園のように栄え、ぶどうの木のように花咲き、そのかんばしさはレバノンの酒のようになる。」
神がわたしたちを豊かにしてくださるのです。他の何者でもなく、神ご自身がわたしたちを祝福してくださるのです。
わたしたちは人を見て躓いたり、裁いたり、自信をなくしたり、元気をなくすのではなく、神を仰ぎ、神と共にあることによって、神の愛を受け、神の愛によって癒され、慰められ、力を受けて、共に生きるのです。
この方こそ、唯一の真の神であり、わたしたちの造り主であり、救い主であり、助け主である方なのです。この神の許にこそ、わたしたちの真実の救いがあり、本当の命があり、生きる喜びがあるのです。
神はきょうもわたしたちを招き続けておられます。「あなたの神、主に帰れ。」「わたしはそむきを癒し、喜んで愛する。」「あなたに答え、あなたを顧みるのはわたしである。」「あなたはわたしから実を得る。」