風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ドストエフスキー『罪と罰』 の検索結果:

ちょっとここで、カラマーゾフのイワンのことを・・(加筆あり)

…続けようと思う。 「ドストエフスキー『罪と罰』33」で『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフについて書いていて、イワンの台詞が気になった。 「おい、お前は不幸な、卑しむべき人間だな! 俺がいまだにまだお前を殺さずにきたのは、明日の法廷で答えさせるためにとっておくんだってことが、お前にはわからないのか。神さまが見ていらっしゃる」イワンは片手をあげた。(略) イワンは荘重に力強くこう言い放った。光りかがやくその眼差しだけからも、きっとそうなることは明らかだった。 「あなたはご病気…

「救い主として敬われたかった男」ルージンと、スメルジャコフ − ドストエフスキー『罪と罰』33

もう何年になるだろう、ずっと以前から、彼は心とろける思いで結婚のことを夢にえがき、それでもこつこつと金をためることに専心して、時節を待っていた。彼は心の奥底に秘めかくすようにしながら、品行がよくて貧乏な(ぜったいに貧乏でなければいけない)、ひじょうに若く、ひじょうに美しい、上品で教養のある、ひどくおびえやすい娘、人生の不幸という不幸を味わいつくして、彼には頭もあがらぬような、生涯、彼だけを自分の救い主と考えて、彼だけをうやまい、彼だけに服従し、彼ひとりだけを賛嘆のまなざしで見…

(暴露主義者?)レベジャートニコフと、ルージン − ドストエフスキー『罪と罰』32

まだ田舎にいるうちからルージンは、かつて後見をしてやったレベジャートニコフが、いまは若手の進歩派のちゃきちゃきとして、よく話題にのぼる現実ばなれした一部のサークルで羽ぶりをきかせている噂を聞きこんでいた。この噂はルージンをおどろかせた。ほかでもない、なんでも知っており、なんでも軽蔑し、なんでもあばきたてる、この種のこわいもの知らずのサークルにたいして、ルージンはもう以前から、一種特別の、とはいえまったくつかみどころのない恐怖心を抱いていたのである。(略)彼はみなと同じように、…

重荷となっている人々が錨となってつなぎ止めている − ドストエフスキー『罪と罰』31

…いるということは、「ドストエフスキー『罪と罰』29 」でも書いた。 ここに先立つp266のソーニャに向かって語られたラスコーリニコフの言葉「みんながあなたひとりの肩にかかってきたじゃありませんか」の「みんな」も「あのひとたち」と同じ、カチェーリーナとその連れ子ポーレチカ、リードチカ、コーリャのことであろう。 つまり、ソーニャを自殺や発狂から引き留めているのはカチェリーナとポーレチカ、リードチカ、コーリャであり、ソーニャにおぶさっているのもカチェリーナとポーレチカ、リードチカ、…

ポーレチカ、リードチカ、コーリャ − ドストエフスキー『罪と罰』30

ポーレチカ、リードチカ、コーリャというのは、ソーニャにとっての継母カチェリーナの連れ子である。 一番上のポーレチカはマルメラードフの臨終に際して、ソーニャを呼びに行くようにカチェリーナから命じられる。 「ポーリャ!」とカチェリーナが叫んだ。「ソーニャのとこへ行って来ておくれ、いそいで。もし家にいなくてもね、お父さんが馬車にひかれたから・・・・・帰ったらすぐ来るようにって言ってくるんだよ。大急ぎでね、ポーリャ! さ、このプラトックをかぶっておいで!」 「いっちょけんめい走ってよ…

ソーニャについてのラスコーリニコフの考察 − ドストエフスキー『罪と罰』29

しかし、それにしても、こうした性格をもち、まがりなりにも教育を受けているソーニャが、けっしてこのままの状態にとどまっていられないだろうことも、彼には明らかだった。やはり彼は、ひとつの疑問をふっきれない ーー なぜ彼女はこんなにも長い間、こうした境遇にとどまりながら、水に飛びこむだけの勇気はなかったとしても、どうして発狂しないでいられたのか? もちろん、彼は、いまの社会では、ソーニャの境遇が、不幸なことに、けっして特殊な、例外的な現象とは言えぬまでも、やはり偶然的な現象にちがい…

「神さまがなかったら、わたしはどうなっていたでしょう?」− ドストエフスキー『罪と罰』28

「求めよ、さらば与えられん」というイエスの言葉は聖書の中でもあまりにも有名な言葉だろうと思うが、これについて記されたルカによる福音書の方では以下のように続いている。 そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がい…

跪(ひざまず)く − ドストエフスキー『罪と罰』27

・・・・・ふいに彼は、すばやく身をかがめると、床の上につっ伏して、彼女の足に接吻した。ソーニャはぎょっとして、相手が狂人ででもあるかのように、思わず身をひいた。事実、彼は正真正銘の狂人に見えた。 「どうなさったんです。どうしてこんなことを? わたしなんかに!」彼女は色青ざめてつぶやいた。と、ふいに心臓が痛いほどしめつけられた。 彼はすぐさま起きあがった。 「ぼくはきみにひざまずいたんじゃない。人類のすべての苦悩の前にひざまずいたんだ」なぜか荒々しくこう口にすると、彼は窓ぎわに…

ソーニャ7 − ドストエフスキー『罪と罰』

兄はひとりきりではない。彼女、ソーニャのもとへ、兄は最初に懺悔にやってきた。兄は人間が必要となったとき、彼女のなかに人間を求めた。彼女は、運命のみちびくまま、どこへでも兄の後について行くにちがいない。(岩波文庫『罪と罰 下』p350) やはりこの言葉は、この言葉だけで記しておきたい。

ソーニャ 6 − ドストエフスキー『罪と罰』

「グリム童話『手なし娘』とソーニャ 」で私は、「この『手なし娘』に象徴されているのは、《徹底した無力》であろうと思われる」と書いた。そして、「ソーニャから思い浮かべたのは、この『手なし娘』であった」とも記した。 この《徹底した無力》は、十字架上のキリストにおいて極まっていると言える。 義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、…

ソーニャ 5 − ドストエフスキー『罪と罰』

「ぼくは用事を話しにきたんだ」ラスコーリニコフが、突然、顔をしかめて、大声に口をきり、立ちあがって、ソーニャに近づいた。(略) 「ぼくは今日、肉親を捨てたんだよ」と彼は言った。「母親と妹をね。もう、ふたりのところへは行かないんだ。あそこできっぱりと縁を切ってきた」 「なぜです?」ソーニャは呆気にとられたようにたずねた。(略) 「いま、ぼくにはきみひとりしかいない」と彼はつづけた。「いっしょに行こう・・・・・ぼくはきみのところへ来たんだ。ふたりとも呪われた同士だ、だからいっしょ…

ソーニャ 4 − ドストエフスキー『罪と罰』

と、人込みのなかから、音もなくおずおずと、ひとりの娘がぬけ出てきた。貧困と、ぼろと、死と絶望に包まれたこの部屋には、彼女の突然の出現は奇異にさえ感ぜられた。彼女の着ているものもぼろにはちがいなかった。いかにも安っぽい身なりにちがいなかった。だがその服は、ある特殊な世界におのずとできあがっている趣味や法則を映して、いかにも下品でけばけばしく、いやしい目的をあまりにも露骨に見せつけていた。ソーニャは入口の敷居の上で立ちどまったが、その敷居をまたごうとはせず、途方にくれたようにあた…

「ラザロの復活」とソーニャ− ドストエフスキー『罪と罰』26

『罪と罰』の中で、ソーニャがラザロの復活を記した聖書個所を朗読する場面があって、それについて書こうと思っていたのだが、最近夫が買ってきた本の中にその場面について言及しているところがあったので最初に引用させて頂こうと思う。 ソーニャは、現実の世界では決して奇跡が起きないことを知っています。なにしろ彼女は、極貧にあえぐ娼婦なのです。 しかし、その自覚は彼女の信仰を少しも弱めることにはならず、むしろ強めています。これは、矛盾そのものです。そして彼女は、その矛盾をさらけ出すことを恐れ…

行き場(居場所)がない! - ドストエフスキー『罪と罰』25

ここまでくれば、ラスコーリニコフの意識における「プレストゥプレーニエ」、人間の掟をふみ越える「新しい一歩」とは、たんに高利貸の老婆に対する殺人行為だけを意味したのではなく、より広範な社会的、哲学的意味、マルメラードフの言う「どこへも行き場のない」状況の中での反逆の一歩をも意味していたことが、おのずからあきらかになるだろう。(岩波文庫『罪と罰 下』江川卓=文「解説」より) 「ふみ越え」とともに、『罪と罰』においては、この「行き場」という言葉が一つの鍵となっているように思われる。…

愛は、踏み越える ー ドストエフスキー『罪と罰』24

…ーニャについて − ドストエフスキー『罪と罰』7」でも引用して書いた。 そこで引用したのは、ラスコーリニコフとソーニャの「ふみ越え」の違いを記したものであった。 ここで引用した続きに記されている江川氏の言葉を私は略した。略した後に記されているのが、「こうして長編のシンボリカも完成する」である。 江川氏の、「宗教的主題、つまりはドストエフスキーの文学的作品世界を支える強固な土台になっていた」というのが具体的にどういうことなのかは私にははっきりとは分からない。江川氏の捉えと私の捉…

「罪」とは − ドストエフスキー『罪と罰』23

「罪の重荷をイエス君にぞ、われはことごと任せまつる」(讃美歌269番) こんな歌詞がやたらと身に沁みるときがある。 良かれと思ってやったことが裏目に出る。『罪と罰』にはそういうことが描かれているように思う。 マルメラードフは、幼い子どもを抱えて苦労している未亡人のカチェリーナを見るに見かねて結婚を申し込む。けれど、幸せにする力もないものだから、一人娘ソーニャを不幸の巻き添えにしてしまう。 主人公のラスコーリニコフは、自分のために身売り同然の結婚を妹にさせないために貧しさから抜…

「愛の対象は、今、ここで私の目の前にいる、一人の具体的な人間なのである」(八木誠一)と、ソーニャ − ドストエフスキー『罪と罰』22

ソーニャも急に椅子から立ちあがり、おびえた目で彼を見つめた。彼女は何か言うことがあり、何かたずねることがあるような気がしたが、それがなかなか口に出なかった。それに、どういうふうに切りだしたものか、わからなかった。「どうして・・・・・どうしてまた、こんな雨のなかをお出かけになりますの?」「なに、アメリカまでいこうという人間が、雨をこわがっていたのではね、へ、へ!じゃ、ごきげんよう、ソフィヤ・セミョーノヴナ! いつまでも、いつまでも元気に暮らしてください、あなたはほかの人の役に立…

「私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります」(コリントの信徒への手紙一13:12 聖書協会共同訳)− ドストエフスキー『罪と罰』21

ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。(創世記32:31 新共同訳) ギデオンは、この方が主の御使いであることを悟った。ギデオンは言った。「ああ、主なる神よ。わたしは、なんと顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました。」主は彼に言われた。「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」(士師記6:22,23) 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブ…

「顔と顔とを合わせて見る」(コリントの信徒への手紙一13:12)- ドストエフスキー『罪と罰』20

彼はちらりとすばやく彼女を見やると、ひとことも言わず、目を伏せて地面を見つめた、彼らはふたりだけで、だれも見ているものがなかった。看守もそのときは後ろを向いていた。 どうしてそうなったのか、彼は自分でも知らなかった。ただ、ふいに何かが彼をつかんで、彼女の足もとに身を投げさせた。彼は泣きながら、彼女の両膝を抱えた。(岩波文庫『罪と罰 下』p400~401) 私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部分し…

レヴィナス(貫成人=著『大学4年間の哲学が10時間でざっと学べる』より)ー ドストエフスキー『罪と罰』

終活で本を片付けていかなければと言いながらまたこんな本を買ってきて、と思いながら、夫の買ってきた文庫本をちらちら捲っていた。すると、「レヴィナス」が目に入った。 以下に一頁にまとめられた「レヴィナス すべてを絶対的他者に与えること」を全文引用させて頂く。 レヴィナスすべてを絶対的他者に与えること やましいことがあるとき、誰かにじっと見られるとどきどきします。銃殺刑に処される者に目隠しをするのは、射手が相手の目を見ながらだと引き金を引くことはできないからだと言われます。 路傍の…

「苦しみを受け、その苦しみによって自分をあがなう、それが必要なのです」 - ドストエフスキー『罪と罰』19

…に接吻なさい」 − ドストエフスキー『罪と罰』13 」でも書いたのだが、ソーニャの語るこの言葉のラスコーリニコフの受け止めがずれていると思われるのだが、ソーニャの使っている「苦しむ」という言葉も二方向に使い分けられているように思う。 ここでソーニャが勧めているのは、直接的な自首ではないだろう。しかしラスコーリニコフはソーニャの言葉を「自首すること」と受け取る。そして自首はしないとラスコーリニコフが答えると、ソーニャは「苦しむことになるわ、苦しむことに」と言い、「そんな苦しみを…

ドゥーニャと、「愛のおのずから起るときまでは」(雅歌) - ドストエフスキー『罪と罰』18

…ィドリガイロフ - ドストエフスキー『罪と罰』14 」で、「スヴィドリガイロフを中心に描かれているのは『愛と自由』ということだろう」と書いたのだが、このことはドゥーニャの側からも言えることだろうと思う。 ドゥーニャは兄ラスコーリニコフのことを思い、ルージンとの意に染まぬ結婚を決意するのである。その事を知らせる母からの手紙を読んで、ラスコーリニコフは心の中で悪態をつく。 アヴドーチヤお嬢さん、きみのお嫁入り先は、実務家の合理主義者ってわけだ。財産もあり(もうご自分の財産をおもち…

「あなたに必要なのは空気なんです、空気、空気なんです!」 - ドストエフスキー『罪と罰』17

あなたは、第一に、もうとうに空気を入れかえなくちゃならなかったんです。まあ、苦しみもいいものですよ。苦しまれることですな。ミコライが苦しみを望んでいるのも、正しいことかもしれません。そりゃ、信じられないのはわかりますがね、妙に理屈をこねないことですな。あれこれ考えこまないで、すなおに生活に身をまかせる、そうすれば、心配はいりません、ちゃんと岸辺に運んでくれて、しっかり立たせてくれますよ。どんな岸辺だというんですか? どうして私が知っています? 私はただ、あなたはまだ長く生きる…

ミコライとラスコーリニコフ - ドストエフスキー『罪と罰』16

ところでミコライのほうは、あれがどういう筋書きだったのか、お知りになりたいでしょうな、といっても、私の理解したかぎりということになりますがね。(略)彼は分離派教徒なんですよ。いや分離派というより、たんなる宗派なんですな。彼の一族にベグーン教徒がいましてね。(略)あの連中の一部のものが、「苦しむ」ということをどう受けとっているか? これは、とくにだれかのためにというんじゃなくて、ただもう「苦しむべし」なんですな。苦しみはこれをすすんで受け入れよ、ましてお上から与えられる苦しみと…

「神がいるなら、どうしてこんな悲惨な事が起きるのか!」 - ドストエフスキー『罪と罰』

マタイによる福音書2章13節から23節からの説教(抜粋) このような悲惨な出来事に直面致しますとわたしたちは神の存在を疑いたくなります。なぜわたしたちを愛し、救おうとしておられる神がいるのにこのような事が起こるのだろうか。わたしたちは自問自答します。けれども、神がいないのでこのような悲惨な出来事が起こるのではなく、神に背き、神から離れて生きていこうとするわたしたち人間の罪が悲劇を引き起こすのです。 神はこのような恐ろしい人間の罪がご自身の御業の上に振り向けられても、なお人間を…

八木誠一『キリストとイエス』と − ドストエフスキー『罪と罰』

ああ、もしおれがひとりぼっちで、だれからも愛されることがなかったら、おれだってけっしてだれも愛しはしなかったろうに! こんなことは何もなかったろうに!(岩波文庫『罪と罰 下』p348) 前の記事で小林秀雄の言葉と共にこの言葉を取りあげたが、この言葉は、「切ない」と言えばあまりに「切ない言葉」である。 しかしこの言葉から私は、『キリストとイエス』の中の八木誠一のこんな言葉を思い浮かべる。 私が私であるのは、私によるのではなく、また私を他者とのかかわりの中においたのも私ではない。…

「本当の苦しみは愛するものからやって来る」小林秀雄 - ドストエフスキー『罪と罰』と

「人間は憎悪し拒絶するもののためには苦しまない。本当の苦しみは愛するものからやって来る」 小林秀雄 『ランボオⅢ』 この言葉がどういう文脈で語られているのか知りたくて、小林秀雄の本を図書館から借りてきた。 人間生活の愚劣と醜悪とを、彼のように極端に無礼な言葉で罵った詩人は恐らくいない。また、その憤りの調子にしても、辛辣で直接で、独特なものがあるが、結局この天才のあり余る精力の浪費に過ぎないように思われる。何かが欠けている。彼は、どのような立場も持たず、あんまり孤立していて、そ…

「主の愛と苦しみとを深く覚えさせてください」(聖餐式 祈り)- ドストエフスキー『罪と罰』と

恵み深い父なる神よ、わたしたちがなお罪人であったとき、主はまずわたしたちを愛して、わたしたちのために十字架につき、肉をさき、血を流して、罪の贖いを成しとげてくださったことを感謝します。どうかいま、わたしたちに、主の愛と苦しみとを深く覚えさせてください。主の裂かれたからだと、流された血とにあずかることによって、罪の赦しの恵みと、よみがえりの生命とを確かにしてください。また、み前にあるわたしたち一同を、主イエス・キリストにおける一つの交わりにあずからせてください。 主イエス・キリ…

ムンクの『接吻』から - ドストエフスキー『罪と罰』

『叫び』で有名なムンクに、「吸血鬼」や「接吻」というタイトルの絵がある。 『接吻』と名付けられている絵は、接吻をしている男女の境界がほとんど溶解しているように見える。 そして柩のなかには、花に埋まるようにして、絹レースの純白の服を身につけ、大理石を彫ったような両手をしっかりと胸に組んで、ひとりの少女が横たわっていた。しかし、少女の乱れた髪、明るいブロンドの髪は、ぐっしょりと水にぬれていた。ばらの花冠が少女の頭を飾っていた。すでに硬直したいかつい横顔も、やはり大理石で彫りあげら…

自殺者の葬儀について - ドストエフスキー『罪と罰』から

わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイによる福音書25:40) 私は「スヴィドリガイロフとユダ」で、「スヴィドリガイロフの言葉は、この聖書の言葉を逆転させた言葉だと言える。『キリストにしたことは、最も小さい者の一人にしたことに等しい』、と」と書いた。 しかし、現実の世界で私たちがキリストに良きことをなすのは不可能に等しい。 「キリストに」と言う時、「献身する」、「修道女になる」ということを思い浮かべる人もいるかも知れない…