風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

惨めな者

この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。(コリントの信徒への手紙一15:19 新共同訳)

 

この言葉を聴いた時、ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」というのは、この言葉が元にあるのではないか?と思った。小学校の頃に「ああ、無情」を読んだだけなのだが・・。

 

この言葉の前にあるのが、

そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。(コリントの信徒への手紙一15:17)

 

私たちの信仰の要はキリストの十字架の死と復活なのだ。

この世の生活、この世的な幸せだけを追求しているなら、絶望する他はないのだ、と。

けれど、死者のうちから復活したキリストを信じるなら、他からどんなに惨めに見えようと、私たちは惨めな者ではあり得ない!

 

https://drive.google.com/file/d/1W9Eh3c9cqV7X_BKAOkudAcXSEP-P6Rue/view(29:35~)

私たちの時は神さまとの交わりのための時なんです。神さまと出会い、神と交わりをいよいよ深めていくための時なんです。だからヨブは、あんな滅茶苦茶な病気にさせられるんです。あれは、より深く神と交わるため。だからヨブ記の最後は、「私は神のことを聞いていましたけれども、今や、この目で神を仰ぎ見ます」と。「聞く」から「見る」に、交わりが進んでいく、そのために私たちの時はあるんだ、と。
だから、色んな試練があるわけです。良いことも悪いことも、それらを通して、私たちは神さまとの交わりを深めていく。聞くから見るという直接性に向かって私たちの時が神さまによって導かれていく、これが私たちの生きている時です。

 

 

あなたを知らない子どもの頃、いつか死ぬんだと思って死を恐れていました。そのくせ、いつも死にたい、死にたいと思っていました。あなたを知らない世界がどれほど悲しい世界であるか、今になって思います。
あなたの元で生きる者とさせてください。