風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「私たちは愛されるために生まれた」(創世記1:27~28)長老説教抜粋

「私たちは愛されるために生まれた」

 

 2022年11月13日(日) 聖霊降臨日後第23主日

聖書箇所:創世記  1章27節〜28節

                               長老説教抜粋

 

1.(はじめに)

  今日、読まれた創世記は、聖書の最初に載っています。世界の始まりがどのようにしてできたのかが記されているのです。

 しかし、創世記は、最初にできたわけではありません。創世記はいくつもの資料が合わさってできています。今日の聖書の箇所のいわゆるP資料(祭司的資料)は、今から約2500年前のバビロン捕囚もしくはそれ以降につくられたものだと言われています。バビロン捕囚とは、「前586年、南ユダ王国バビロニアに征服され、イスラエルの民が連行され、およそ50年もの長い間、捕囚生活をバビロニアで行った。その後、ペルシアのキュロス2世によって解放され、やっと故郷の地に戻ることが許された」、というものです。神さまの民なのにどうしてイスラエルが捕囚の民になってしまうのか。神さまを拝む神殿も壊された。私たちは一体何者なのか。苦労の絶えない生活の中で、ちょっと立ち止まり、今までの言い伝えをまとめ、できたのが創世記のP資料でした。

 

(略)

 

3.(私たちは愛されるために生まれた)

 男と女に創造された話しに戻ります。男と女から子は生まれます。つまり、生みの父、生みの母がいて、私たちが生まれたという事実は、自分の意思でかえることはできません。「神さま、このような大変な家庭の境遇の中でなぜ、私は生まれているのですか?もっと幸せな家庭の方がよかった」「私はこの世に望まれて生まれてはいないのではないでしょうか」と苦しくて叫んでしまう人も皆さんの中にはおられることでしょう。私もこのような問いかけにとても答えることはできません。なぜですか?どうしてですか?と私も苦しむ皆さんと一緒になって神さまに問いかけ、考えることしかできません。しかし、創世記がいっていることは、このような状態であったとしても男と女を通して、神さまが(神さまが主語)人を創造した。神さまがご自分にかたどって創造された。といわれているのです。神さまは私たちをこの世に望んで生まれさせたのです。たとえ、どういう状況であろうとも、わたしたちは神さまによって愛されるために生まれさせてくださった、と創世記はいっているのです。

 

(略)

 

 私たちはみな罪人なのです。(ローマ3:9)「正しい者はいない。一人もいない。」たとえ、生みの父、生みの母であったとしても罪を持っているのです。しかし、そのような父母を主イエスキリストが赦し、愛し、生かしてくださった。そしてあなたという存在をその父母を通して神さまが生まれさせてくださったのです。  「神さまが生まれさせてくださった」ということについて、次のような聖書箇所もあります。詩編139篇13節~16節「あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。 秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。」

私たちはこのことを深く憶えたいと思います。

4.(創世記の編集成立から)

 先ほどもお話ししたように今日の聖書箇所の創世記P資料は、バビロン捕囚もしくはそれ以降のときに作られたものだと言われています。神さまの民といわれていたイスラエルの民は、バビロニアに支配され、絶望的になっていたことでしょう。また、たとえ、やっと捕囚が終わり、帰還したとしても荒れ果てた故郷を見て、不安と絶望の中にいたことでしょう。とてもイスラエルの民を増やすことなど考えられない状態でした。そのような中で、イスラエルの民に神さまは「生めよ、増えよ、地に満ちよ」「自然を支配する(責任を持つ)という働きをあなた方はもっている」「私があなた方をこの世に望んで生まれさせたのだ」と語られたのです。捕囚になっていた人々は「えっ?」と思ったかもしれません。でもこの言葉を大切にすることができました。捕囚になっていた人々にとって、この言葉は大きな希望となっていきました。そしてこの希望を持ち続け、この後もすごしていくことになりました。

5.(私たち自身にむけて)

 私たちも捕囚になった人々と同じようにこの創世記の言葉を大切にして希望を持ち続けたいと思います。今、私たちには、不安で暗闇の中にいます。コロナの終息もなかなか見込めません。自然災害も多く起こっています。いろいろな問題が起こり、到底平和な生活世とは思えません。そして多くの人の苦しみや悲しみが実際あるのです。「どうして、どうしてと叫ばざるを得ません」このような中で私たちは気持ちも塞ぎ込み、何もできていない自分のダメさを感じてしまいます。私自身、自分が神さまにかたどり、創られた人などとは到底思えないのです。でも、神さまの一人子、主イエス・キリストは十字架にかかり、復活されました。創世記1章31節「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めてよかった。神さまはすべてのものをご覧になって「極めて良かった」といわれています。主イエス・キリストによっては私たちも「極めて良かった人」つまり「神さまにかたどって創られた人」、にもう一度新しくつくりかえてくださるのです。聖霊が働き、神さまを愛し、隣人を愛することができるようにと神さまが私たちをつくりかえてくださるのです。

6.(おわりに)

 わたしたちの世はまだ、神さまが御支配される世とは到底なっていません。しかし、このような中でも神さまは私たちと共におられます。だから、私たちはどのようなとき、どのような状態の時であっても、神さまに創られた人、創りかえられた人として励んでいきたいと思うのです。

 

祈り

 聖なる神さま、礼拝に招かれ感謝いたします。あなたは私たちをかけがえのないものとして創ってくださいました。そして「神さまにかたどって創られたもの」にもう一度つくりかえてくださっています。どうか、あなたによって神さまを愛し、人を愛することができますように。そしてあなたが創られた自然を愛することができますように。主イエスキリストの御名によって祈ります。

 

中間の略させて頂いた部分では、最近行われた修養会で語られた牧師のレジメからの引用が読み上げられていた。

しかし私にはその牧師の言葉よりも、長老の語られた「私もこのような問いかけにとても答えることはできません。なぜですか?どうしてですか?と私も苦しむ皆さんと一緒になって神さまに問いかけ、考えることしかできません」という言葉の方が心に響いた。

そして長老のこの言葉をお聴きして、夫の以下の説教を思い浮かべた。

myrtus77.hatenablog.com

 

 

娘が帰ってきて、石を添えた。