立って、よまわりの始まる時に叫べ。
主の前で、心を水のように注ぎ出せ。
幼子たちの命のために
主に向かって両手を上げよ。彼らは街角の至るところで
飢えで弱り果てているのだ。(哀歌2章19節 聖書協会共同訳)
「心を水のように注ぎ出す」とは、祈ることを言うらしい。
関連箇所には、以下のような記述がある。
ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。(サムエル記1:12~15)
「主に向かって両手を上げる」行為も祈りの姿勢を表すようである。
私たちは下を向いて祈るが、旧約の人々は、天に顔を向けて祈っていたとも聞く。
新共同訳では、「あなたの幼子らのために」と訳されている。
立て、宵の初めに。
夜を徹して嘆きの声をあげるために。
主の御前に出て
水のようにあなたの心を注ぎ出せ。
両手を上げて命乞いをせよ
あなたの幼子らのために。
彼らはどの街角でも飢えに衰えてゆく。(哀歌2:19)
これまでの信仰生活の中で、一度だけ「水のように心を注ぎだして」祈ったことがある。その時は、声も言葉も口をついて出なかったが、私は突っ伏して「助けてください、どうしたら良いですか」と叫んでいた。ほんの一分足らずの時間だったと思うが、次の瞬間、自分がどうすべきか答が与えられていた。
周りにどう思われようと、伝えないで亡くなって、後で後悔するよりはマシだと思った。
しかし、誰に向かって助けを求めれば良いのか知らなければ「水のように心を注ぎ出す」ことはできない。
心を水のように注ぎ出せ、「主の前で」!
神はご自身をすべての人に知らせようとされています。神に立ち帰り、神と共に生きることこそ、救いだからです。