風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「おそらくパウロは…西暦57年の春にこの書簡を書いたと思われます」

おそらくパウロエルサレムに向けてコリントのケンクレアイ港から出発する直前の西暦57年の春にこの書簡を書いたと思われます。https://shinguchurch.blogspot.com/2022/06/6193-141-9.html

 

「思われます」と言われているので、はっきりと分かっている事ではないのかもしれないが、「西暦57年の春に」といった具体的な記述が、死者の中からの復活を信じるというようなキリスト教信仰を絵空事でない堅固な信仰にするように思える。

 

myrtus77.hatenablog.com

 

「西暦57年の春」だけでなく、この説教にはローマの信徒への手紙が書かれた背景が詳細に述べられている。

 

ところで、1世紀前半のローマ市には多くのユダヤ人が住んでいました。キリスト教は改宗したユダヤキリスト者によってもたらされたと考えられています。当初はユダヤ教の会堂であるシナゴーグで集会をしていましたが、41年にローマ市で集会の禁止令が出されシナゴーグでの集会が禁止され、公に集会ができなくなりました。このことでキリスト者独自の集会がローマ市内で深く根を下ろすことに繋がっていきます。ユダヤ教と一線を置いて、キリスト者による集会が、家の教会として根付いていきます。そんな時、49年にローマ皇帝クラウディウスユダヤ人追放令を出します。ユダヤ人追放令が出される前の家の教会の構成員の主流はユダヤキリスト者であり、彼らが教会の中心的な存在であり、多数を占めていました。そのユダヤ人たちが追放されて、教会から忽然と姿を消してしまったのです。教会には異邦人のキリスト者とローマの市民権を持つ少数のユダヤキリスト者だけが残されました。その時の教会は危機的な状態であったと思いますが、残された異邦人キリスト者たちが中心となって伝道を発展していきます。そして、54年に追放令が解かれます。そうするとローマ市から追放されていたユダヤキリスト者の一部がローマに帰ってきました。しかし、既にローマ市内の家の教会では異邦人キリスト者が多数派となっており、ローマにおける教会の勢力図に全く変わっていました。この勢力図の変化によって、異邦人キリスト者帰還してきたユダヤキリスト者との間で亀裂が発生しました。今日の聖書箇所の14章はまさしくそのことを示しているところです。それはパウロがこの書簡を執筆した目的の一つと言えますが、分裂しそうな教会の一致を図ろうとしたのです。教会の一致はパウロにとって重要な問題で、ローマ教会が分裂し崩壊してしまいますと、パウロのスペイン宣教の計画に支障が生じることになります。なお、パウロはローマへ行ったことがありませんが、交わりのあるアキュラとプリスキラを始め、ローマから追放されたユダヤキリスト者から詳細なローマ教会の情報を得ていたと考えられます。それでは、1節より以下順を追って読み進めます。

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こういった背景が述べられていることで、以下の部分が理解できる。

もう少し、ストレートに言えば、ローマ教会に戻りたいというユダヤキリスト者を一切拒むことなく無条件で受け入れなさい、と勧めているのです。それと、もう1つ重要なこととして、パウロは双方が議論して、違いを明らかにしたり、どちらが正しいか比較したり、意見を一つに纏めることを求めておらず、一方の考えだけで教会を染めようとは考えていないということです。

(略)そして、先ほども申しましたが、野菜だけを食べている弱い人、というのはユダヤキリスト者のことで、これは旧約聖書の律法に記されている食べ物に対する規定が生活習慣になっている人たちことを示しているのであります。

また、2節は、各々キリスト者たちが律法を克服しているか、していないかの違いを述べています。つまり、律法の規定にとらわれず、何を食べても良いと信じているキリスト者も居れば、律法を拡大解釈し一切の肉を遠ざけて野菜だけを食べているキリスト者も居るというものです。大雑把にいいますと、全てのものを食べて良いと考えているのは異邦人キリスト者で、野菜のみを食べるのはユダヤキリスト者です。皆さん、ご存知のように、キリスト教ユダヤ教の中からスタートしました。1世紀のキリスト者の多くはユダヤ人でユダヤ教からの改宗者でありますので、当たり前のようにモーセの律法や宗教的習慣に従って生活をしていました。そのようなユダヤキリスト者の宗教的な行為や習慣は、思いつきや個人的な考えによるものではなく、神さまとの関係の中で時間をかけて培われたものです。食物規定もその一つで、行動として行う律法です。ユダヤキリスト者キリスト教へ改宗したからと言って主なる神さまから、別の神さまに乗り換えたわけではありませんので、生活習慣となった宗教的な行動は簡単に捨て去ることは出来ません。(略)パウロは、どちらも聖霊によって神さまに受け入れられたキリスト者でありますので、そのような外見上の行動を批判しても、意味が無い事だと教えているのです。

(略)

今現在、私たちの日本キリスト教会ではその様な信仰に関わる問題はおこっておりません。しかし、天皇の代替わりや過去の戦争の時代も含めて、日本におけるキリスト教の歴史において、祝祭日に関することでキリスト者としての良心、即ちイエス・キリストに心から従うことを、困難にさせることが何度もありました。そして、そのような事があっても教会の交わりの中で自由と一致を保持しようとさまざまな苦労と工夫がなされたのです。だから、いまこうして私たちに信仰が引き継がれているのです。現在も、キリスト教会には色んなタイプがあり、様々な考え方のキリスト者が集まっていると思います。しかし、その様な多様な人の集まりがあって、なおそこに一致があって自由がある、それがキリスト教会であるのだと思います。そして、それは主が私たちに与えて下さっている教会の姿であるのだと思います。

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「教会の交わりと一致」(ローマの信徒への手紙14.1-9)

 

主にあって死ぬというのは、死という出来事がキリスト者である私たちの信仰生活と全く関係のない何処か分からない所で秘密裏に起こるのではなく、主にある信仰生活の経験として迎えることができるというものです。

 

勿論、キリスト者であっても、死を止めることも、避けることも出来ませんし、キリスト教に改宗しても、死が怖いと感じなくなるということはないと思います。死は不安で不気味なものであります。しかし、今の時代を生きる私たちにとって幸いなことに、イエス・キリストは2000年前に、死んで、死というものがどのようなものかを経験され、その死を打ち破って蘇られました。そのことによって、私たちは、自分が死んでいく時、死を自分一人だけで経験するのでなく、死に行くときも死んだあとも、イエス・キリストと堅く結ばれているのです。私たちと堅く結ばれているイエス・キリストは死を経験され、死を克服して蘇って下さったのであります。その主が終わりの日に私たちを蘇らせ永遠の命を与えてくださるのです。死を迎えるときもその主と堅く結び付けられていることをシッカリと覚えておかなくてはなりません。キリスト者にとって死は最強の敵ですが、死を打ち砕いて下さったイエス・キリストが私たち一人一人に、私の主として強く繋がって下さっています。主イエスは死という私たちの最強の敵より圧倒的に強いのです。そのイエス・キリストが教会のかしらで居て下さるのです。ですから、教会の交わりは強いのです。生きている者も死んでいる者も、イエス・キリストに堅く結ばれているのです。そのイエス・キリストの恵みに感謝しましょう。

 

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少し前の水曜日。