風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「恵みと平和があなたがたにあるように」(テサロニケの信徒への手紙一1:1)

今日、礼拝に来てくださった先生のお説教から、了承は得ていないけれど、抜粋で紹介させて頂こうと思う。

 

「恵みと平和があなたがたにあるように」(テサロニケの信徒への手紙一 1章1節)

 

(略)

 

1節の「パウロ、シルワノ、テモテから」を直訳しますと「パウロとシルノワとテモテが」であり、「テサロニケの教会へ」は「テサロニケの教会のために」となり、意味としては「パウロとシルノワとテモテがテサロニケの教会のために」手紙を書きました、となります。そして、パウロたちとテサロニケの教会の人たちを結び付けているのが、「父である神と主イエス・キリスト」であるということであります。この言葉の意味は非常に大切なことであります。教会は同じ志を持った人が自主的に集まっても形成されるものではないという事です。幾ら熱い思いがあっても人の志や思いだけで教会はたたないという事です。父なる神さまが、主イエス・キリストのもとに人々を集めて下さるから教会がたつのです。集められた人々はキリストの十字架と復活による罪の赦しと新しい命を与えられ、神さまをアッバ父よ、天の父、と呼ぶことを許されます。その様な神さまの一方的な恵みに与り、教会の頭であるイエス・キリストのうちにあって人と人との交わりが出来るのです。私たちが教会に繋がっているのは、神さまのご意志により、私たちを選び、招いて下さっているからであります。教会は主にある交わりであることを忘れてはなりません。(略)

 

1節の後半に「恵みと平和が、あなたがたにあるように」とパウロは祈っています。まず、「恵みと平和」の「恵み」という言葉の意味ですが、パウロが恵みという言葉を使う時、その意味は受けるに全く相応しくない者に神さまの恩恵が与えられる、ということです。清く正しく、罪も犯さない人が恩寵を受けても、それは「恵み」とは言わないというのがパウロの考えです。ですから、この私が一所懸命頑張って神さまの御心にかなう行いや働きをしたから教会に招かれたのではなく、受けるに相応しくないこの私が選ばれ、招かれるに値する者で無いのに、神さまがただ恵みによってこの私を選び、教会に招いて下さっているということです。神さまの選びというのは、この恵みによるものだと言えます。さらに言えば、こうして教会に招かれている全ての人が、主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦し、体の復活、永遠の命を与えられるに相応しくないにも関わらず、与えると約束して下さっている、その様な計り知ることの出来ない神さまの大きな恵みに与っているということです。

 

この恵みという言葉に続いて、平和がありますように、と祈っているのですが、この順番は大切な意味があると思います。また、この恵みと平和は切り離すことは出来ません。神さまが無条件で私たちの罪を赦して下さる恵みがあり、それを信じて受け入れるから、平和があると言うことです。この平和は、この世界に戦争がない、争いがない、迫害がない、治安が安定している、いわゆる政治的に平安ということではなく、健全で、完全で真の平和であるということですが、それは人間同士のことではなく、イエス・キリストによって築かれる神さまと人との間での健全で完全な交わりであります。神さまと人との平和な関係であり、本来あるべき正しい関係です。ですから、相応しくないにも関わらず無条件で私たちの罪を赦して下さる神さまの大いなる恵みを受けていることを覚えて、主イエス・キリストによって神さまとの交わりの中に入れられなさいと、パウロは祈っているのです。「恵みと平和が、あなたがたにあるように」、この祈りは私たちの教会の一人ひとりにも向けられた祈りでもあると受け止めたいと思うのであります。

 

祈りましょう。

 

讃美歌191

4 世にのこる民 去りし民と ともにまじわり、神をあおぎ、

   とわのやすきを待ちのぞみて、君の来ますを せつに祈る。

 

 

「恵みと平和が、あなたがたにあるように」、この言葉をこの一週の糧として・・。