風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

レヴィナスが引用する「私は他の誰よりも罪が深いのです」という言葉はアリョーシャの言葉ではないらしいことが分かった

夫の咳は出張から帰って症状がぶり返したので、肺炎を起こしていてもまずいので週明けに病院へ行くように言っている。私は家族を病院に行かせないようにしているわけではない。出張も多く忙しい上に病院に行くと時間を取られると言って本人が行きたがらないのだ。
さて、娘の蕁麻疹や夫のその後の経過について書く前に、過去記事の「私の『ドストエフスキー』から、内田樹氏の『レヴィナス』について考える」の中で書いたことに間違いがあったことが分かったので、それについてメモしておこうと思う。
私は統合失調症の因子を持っているようなので、ご親切な方が私に教えようとして導いてくださったと受け取っているのだが、「レヴィナス ドスト」という検索で二度アクセスして来られた方がいて、そこを辿って行ってあるブログ記事に行き着いた。以下にリンクする。


● レヴィナス哲学の『罪と罰』★Immanuel Can't Stop Murder(1)
 つまり『カラマーゾフの兄弟』の最も有名な山場である。
 だが、「大審問官」がこの作品の核心なのではない。
 真に核心的なのはその前置きとしてイワンが語る様々な幼児虐待と罪もない子供の苦しみの話である。
 罪もなく子供が苦しむ。
 それこそがこの父親殺しの物語の真の主題である。
 それこそが、カラマーゾフの三兄弟の共有する胸の痛みであり心の叫びなのだ。
 否、それ以上にそれはドストエフスキー自身の魂の慟哭である。(抜粋引用)

カラマーゾフの兄弟』について書かれたものをちらちら読むと必ずといって良いくらいにこの「大審問官」について長々と言及しているのであるが、私も『カラマーゾフ』を読んで以来、「大審問官」は『カラマーゾフ』の核心部分ではないと考えていた。
ところが、このブログはただ『カラマーゾフの兄弟』について書いただけのブログではないのだった。タイトルが示しているように、レヴィナスについて書いたブログ記事なのである。ここには、レヴィナスが好んで引用したカラマーゾフの兄弟の言葉「僕たち人間は誰でもすべての人に対して、すべてのことに対して罪があるんです。なかでも一番罪深いのはこの僕です」(この引用は「小沼文彦訳」と記されている)が、「ゾシマ長老の夭折した兄マルケルの言葉」だと書かれていたのだ。

「われわれはだれでも、すべての人に対してあらゆる面で罪深い人間だけれど、なかでも僕はいちばん罪深いんですよ」(原卓也=訳『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)より)

そして、以下のようにも書かれている。

 但し、これと同様の言葉はミーチャ・カラマーゾフの口からも生々しく吐かれているが、レヴィナスは何故かマルケルという小さな男の子の口からその言葉を取ることは注記しておく必要がある(『存在するのとは別の仕方で』邦訳書二六五頁『暴力と聖性』邦訳書一三六頁)。
 同じ言葉であってもそれが誰の口からどのような場面で語られるかによって負わされている意味は時として天と地ほど違う。(上記リンクブログ記事「レヴィナス哲学の『罪と罰』」より抜粋引用)

素晴らしいブログ記事を教えていただいたものだと思う。誰が教えてくれたのかは分からないのだけれど・・。

このブログ記事を拝見していて、しばらく前にブログに書いた「ヨブ記」の中の訳で気になった訳があったことを思い起こしていた。
口語訳で「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」(ヨブ記2:9)という妻の言葉が、新共同訳では「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」となっていたのである。私は「無垢」という言葉に引っかかったのだが、これを訳した(もう亡くなられた)牧師は「この言葉に拘って訳した」と言っておられたと夫が言っていたのだった。この言葉の原語に「無垢」という意味があるかどうか夫に調べてもらったのだが、「ある」ということだった。
このことについては、また別記事で書きたいと思うけれど、興味深いことが次々出てきて困ったものだ!

ところで、レヴィナスが引用した言葉がアリョーシャの言葉ではなく夭折したゾシマ長老の兄の言葉であったとしても、基本的には私の考えは変わらない。
何故なら、『カラマーゾフ』の中に登場する人物の言葉は、全てドストエフスキーの長い問いの中から出てきたものだからである。パウロが復活の主に出会って回心したように、ドストエフスキーも神に出会ってキリストの赦しを受け入れたのだ。キリストの赦しを受け入れるまでのドストエフスキーの思考の全てが、『カラマーゾフの兄弟』の中に記されていると思う。だから、アリョーシャの言葉でもマイケルの言葉でも変わりはしない。
その上、この夭折した兄マイケルは、ゾシマ長老の中ではその「無垢」な精神性の故にアリョーシャとつながっているように描かれている。そのアリョーシャが「ガリラヤのカナ」の場面で、キリストの赦しを受け入れるのである。『カラマーゾフの兄弟』のハイライトはこの場面である。けれど、ドストエフスキーの《神の赦しを受け入れた信仰体験》が理解できなければ、『カラマーゾフの兄弟』の核心がどこにあるかは解らないだろう。


さて、リンクしたブログの記事の最後にはこう記されている。

 否、それ以上にそれはドストエフスキー自身の魂の慟哭である。その文学の真実である。
 そのことを思うと、レヴィナスのこの美しい言葉の引用行為に、単純に感動してばかりはいられない、陰鬱な懐疑と嫌疑の念を心が抱いてしまうのを、わたしは自分に禁じることができなくなってしまうのだ。(上記リンクブログ記事「レヴィナス哲学の『罪と罰』」より抜粋引用)

真に、鋭い洞察だと言わねばならない。