風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子9

荒起せる土塊のひとつひとつづつ生ききたるときカインを怖る『朱靈』
無人野に人をりといふ安心は人をりといふ不安に通ず
無人の野おもむろに翳る一部分タールの如き黒となりゆく

この三首は、歌集『朱靈』の中の「北邊」にちりばめられている。この「北邊」には網走刑務所のことを詠った短歌もある。

一首目に詠われているカインはもちろん旧約聖書の中に出てくる土を耕す者となったカイン(創世記4:2)である。アダムが罪に堕ちた後、土は呪われ茨とあざみを生えいでさせる(創世記3:17,18)と言われれ、アダムは額に汗してパンを得ようとし、ついには土に返る(創世記3:19)と言われている。アダムの子カインは、その、土を耕す者となった。そして、羊を飼う者となった弟アベルを殺して土に埋めたのだ。
主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」(創世記4:10~12)


この『朱靈』より前に出された歌集『原牛』の中には次のような歌もある。

原野にて雪降る野にてひとりとひとりの出あひはおそろしからむ『原牛』
ある時、暗くなってから買い物に出た。夏にはあまり見えなかった星がくっきりと見えていたので、しばらく立ち止まるようにして星を見ていた。すると、少しカーブした坂の上から車が一台現れた。角のところで曲がるのかと思ったが曲がることもなく、しばらく止まるようにのろのろとこちらに向かってやってくる。狭い道を私の近くまで来て私の方にすり寄るようにして通り過ぎ、通り過ぎてから道の中央に軌道を戻した。振り向いて見ていると最初の角で曲がった。私は、その車がぐるっと回ってもう一度同じ道に出てくると思った。私は狩猟民族系だから勘が鋭い。たまに外れることもあるにはあるが。はたしてその車は、私がもう少しで広めの道に出るという手前の辺りで、来るべき方向から曲がってやってきた。そうして、もう一度私の所まで来ると私の横すれすれを通り過ぎて行った。私はすぐさま振り返って車のナンバーを頭の中にたたき込んだ。その車の主は、暗く狭い夜道を何の光り物も付けずに黒いジャケットを羽織って歩いている私を脅してやろうと思ったのかも知れない。けれど、そのやり口に、並々ならぬ悪意を私は感じ取った。
葛原妙子も人間の中にあるこのような悪意を感じ取っていたのではないだろうか。いや、もしかしたら、自分の中にあるこのような悪意を知っていた人なのかも知れないと思う。

キリスト教でいうところの罪の定義というのは、普通に考えられるものとちょっと違う場合がある。こういうことを罪というのだろうかと思って牧師に尋ねたりした時に、「そういうことを言うのではない」という答えが返ってきたりする場合がある。葛原妙子もキリスト教の罪というものを自分なりに捉えて、長らくこれと格闘していた人なのだろうと私は思う。

鄢=黒