風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

山上の説教から、「死んでも大丈夫なんです」へ

https://www.youtube.com/watch?v=C9lXJ6xWRwQ&t=175s

(16:50~)神的暴力(略)民衆の暴動っていうのは良いか悪いかっていう次元を超えているんですよ。(略)(20:35~)そこ(刑務所)に膨大なお金とか食べ物とか色んな物を送ってくると、送ってくる人達の気持ちっていうのは何だろう、と。それはやっぱり互酬交換の・・を意味してるんじゃないですか?人は儲かることばかり考えてるんですけど、何か人に与えるってことも喜びとしてやってるんですよ。(抜粋)

 

色々と興味深い内容の動画なのだが、この動画のお話を聞いていて、山上の説教を思い浮かべた。

憐れみ深い人々は、幸いである。
   その人たちは憐れみを受ける。(マタイによる福音書5:7)

そして、神に似せて造られたという、罪に堕ちる前の人間を思い描いた。

 

 

いつもお聞きしている教会の説教もマタイによる福音書5章3節からで、山上の説教のところからだったのだが・・、

このお説教の説教題は「死んでも大丈夫」ではなく、「誇り」となっていて、説教の中でも「死んでも大丈夫」とは一言も語っておられないのだけど、お説教の最後で、「私たちが神の恵みの支配に自分を完全に明け渡す、それはですね、やはり死ぬ時です。(略)まさにこの死ぬ時に、私たちは本当に気が楽になる。もう私は何もしなくてもいい」って語られていたので、これは「死んでも大丈夫」ってことだって思った。

 

娘の好きな聖句を思い浮かべた。

あなたは終わりまで自分の道を行け。そして、憩いに入れ。(ダニエル書12:13 聖書協会共同訳)

 

 

fruktoj-jahurto.hatenablog.com そしてわたしたちは、イエスにより復活させて頂くのです。そのためにイエスは死に至ってくださいました。死に囚われているわたしたちの手を取り、死から救い出し、導き出すために、イエスは自ら死のただ中に来てくださいました。イエスが死の中にまで来てくださいます。だからわたしたちは死んでも大丈夫なのです。死んだらおしまいではないのです。死の先に復活が備えられています。イエスは、死の中にまで希望を携えてきてくださいました。

 それを、「父の御心である」とイエスははっきりと言われます。神が与えようとしているものが分からない人々に、見ても信じない、自ら経験しても信じない人々に向かってはっきりと言われます。わたしたちが罪から救い出され、復活することは、父なる神の御心なのです。

 

 

 椎名麟三は、昭和二年、十六歳の時に宇治川電気電鉄部に入社し、乗務員となるわけだが、その後労働運動に参加し、会社の御用組合に対抗して刷新同盟を組織、日本共産党宇治電細胞のキャップとなっている。昭和六年八月、共産党一斉検挙の直前に東京へ逃れたものの浅草で逮捕された。結局、昭和八年に、懲役三年執行猶予五年の判決を受け、刑務所の未決を出所する。治安維持法は、最高刑として死刑を含んでいた。未決の独房にあって、椎名麟三の直面したのは、その独房生活の日々にあって「内面的な一事件」を体験した事実を告白している。「自分の仲間が、もし死刑を宣告されたら、自分は代わって死んでやることが出来るだろうか?」という問いに逢着し、ついに「否!」の答しか得られなかったという内的な苦闘がそれである。そこで椎名麟三は「多くの自己弁解をつけても、『自分は誰かのために死ぬことは出来ない』という事実を否むことは出来なかった。」と書き、「(自分自身の愛に誤解があった)と思うと同時に、(自分は階級的に裏切りを行なった)という感じを味わった。自分はニヒリズムに墜ちた。」と告白している。椎名麟三の転向体験の本質がそういうものとしてあったからこそ、『深尾正治の手記』のあの、自己を孤独においてさえ死なし得るものはなにかという問いが生まれてきたわけでもあったろう。それは、死をこえる根源的な契機とはなにかという難問にほかならない。やはり「私の小説体験」のなかで、椎名麟三は、「全体に対する決定的な否定は『死』であり『もの』である。」とも語っているが、そういう「決定的な否定」としての「死」があるかぎりは、「愛」にかんしてもまた、人は、「愛の無能力者」としての自己の惨めな姿を見出すほかはない、ということにもなるわけである。(椎名麟三『愛について』解説=松原新一)

 

ここに、「キリスト」という絶対的な一つのものを加えると、「わたしたちは死んでも大丈夫なのです」となる。

 

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博士の愛した数式』の中では、「一人の人間が1つだけ足し算をした途端」と表現されていたのだが、私はここを、「絶対的な一つのもの(つまり私の中では神ということだが、)を加えると、全く相容れなかったものたちが0という無限の存在によって抱き留められる」と表現したいと思う。

神という存在の根柢によって、私達は私達自身でありつづけながら、無限に抱き留められている。

 

 

ところで、椎名麟三の『生きる意味』の「あとがき」に「この貧しい本から、あなたの新しい思想や生き方の踏み台となるものを見出していただけるなら、もちろんこれ以上の喜びは私にはありません」という椎名自身の言葉が記されていて、自分の作った短歌擬きを思い浮かべて感慨深かった。

 

踏んでゆく乳房に喰らひわが生の母体となしし彼の軌跡を