風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

無意識の意識化

「ありのままの自分を受け入れる」という言葉を良く聞く。「ありのまま」という言葉は良く口にされる言葉だと思う。けれど私はこの言葉に納得できない。「ありのままの自分」ってどういう自分よ?と言いたくなる。「ありのままの自分」等という曖昧な物言いが嫌いなのである。
結婚して夫婦喧嘩をすると、夫は自分の書斎に引き籠もるのだが、私はそれを追いかけて行って白黒はっきりさせようとするのだった。そんな喧嘩を繰り返しながら、それぞれの生まれ育った風景を思い浮かべていた。夫の故郷は淡いブルーの山に囲まれていて、その山の上には同じようなブルーの空が広がっていた。私が生まれ育った山は濃い緑で、空は、真っ青である。そして片側は山、もう片側は海。海も山も空もくっきりと分かれているのである。つまり、そういう景色の中で育った私は何事も白黒はっきりさせたいのだ。雨にけぶる6月の海が好きだと思うのは、白黒はっきりさせたがる自分に疲れを感じるもう一人の自分の好みだろうと思っている。
そんなことで、「ありのままを受け入れる」などと言う曖昧な方法より、無意識を意識化する方が自分の性に合っている、と思うのだ。もちろん無意識を完全に意識化するなんてことは出来ることじゃないとも思ってはいるのだが・・。

さて、そういうことだから、このところ無意識下で鬱屈していたものを意識の上に引きずり出して、はっきりさせてみようと思う。

しばらく前に、合成だか本物だか知らないが、生まれたばかりの赤ん坊の写真を立て続けにツイートしていた人がいた。その人は、「子どもを放射能から守ろう、子どもを被曝地から疎開させよう」ということを主にツイートしている人なのだが、その写真のツイートを見た瞬間、一体どこから人は道を踏み外すのだろうかと思ったのだった。
「子どもを放射能から守れ」と言うのは、どう考えたって悪いこととは思えない。しかし、そういった写真を、たとえ合成だとしてもツイッター上に晒すというのはどうなのだろう、と思う。その写真が合成だとしても、放射能を回避させるために賢いやり方だとは到底思えないし、さらにそれが本物の写真であるなら、これほど酷い行為はないと思える。

甥や姪が福島に住んでいる者にとっては、こういったツイートには余計耐えられない思いをする。避難できれば、と思う。避難できる人、避難しようと思う人については出来ることがあれば応援したいと思う。けれど、避難したいと思っても簡単にそうは出来ない人というのも実際にいるのだし、そういう人達を窮地に追いやることを目標にしているわけではないだろう。それならばもう少し考えてツイートをして貰いたいと思うのだ。

以前、分離手術を受けたドクちゃんが弱っていくベトちゃんをさすりながら労っている姿をテレビで見たことがある。ベトちゃんドクちゃんを産んだお母さんは二人を手放したという。私も同じ立場ならショックから同じようにするかも知れない。だから責めるつもりはない。責められない。責める権利もない。けれど、母親も手放さずにおれなかったドクさんが、私たち以上に人間的な優しさを身に備えているということを胸に刻んでおかなければならないと思う。

まだ言葉を十分尽くせていないように思う。言葉を費やせば費やしただけ誰かを傷つけることになるのかも知れない、とも思う。そういう時の中を私たちは生きている、と思う。

会堂の脇の奥に露草が咲いていた。

黄色のヒガンバナ?会堂の脇の奥で。

こちらは紅白のヒガンバナ

長老は花壇に何を植えたんだろう?何が出てくるか楽しみ。