風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

罪を背負うー夏目漱石『夢十夜』第三夜より

漱石の『夢十夜』の第三夜はとても恐ろしい夢なのだが、これを読んでいて、ふと、「罪を背負う」ということを思った。それも、「自分の与り知らぬ罪」を。

 こんな夢を見た。
 六つになる子供を負(おぶ)ってる。慥(たしか)に自分の子である。(『夢十夜』より)

と、こんなふうに始まる。そして、次のように終わる。

 「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」
 自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲人を殺したという自覚が、忽然として頭の中に起った。おれは人殺であったんだなと始めて気が附いた途端に、脊中の子が急に石地蔵のように重くなった。(『夢十夜』より)

これは「罪を背負う」ということをテーマにしているのだと考えていて、漱石が英国留学していたことに思い至った。この夢の中で、主人公は何度も背中の子供を捨ててしまおうと考える。

 「もう少し行くと解る。- 丁度こんな晩だったな」と脊中で独言のようにいっている。
 (中略)
 ・・。ただこんな晩であったように思える。そうしてもう少し行けば分るように思える。分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。自分は益(ますます)足を早めた。
 雨は最先から降っている。路はだんだん暗くなる。殆んど夢中である。ただ脊中に小さい小僧が食付(くつつ)いていて、その小僧が自分の過去、現在、未来を悉く照して、寸分の事実も洩らさない鏡のように光っている。しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。自分は堪らなくなった。(夏目漱石夢十夜』(岩波文庫)より)

英国に留学した漱石キリスト教の原罪と出会って、それを背負いかねながら、しかし捨てきれずにいる。そんなことを考えた。
「もう少し行けば分かるように思える」- 人類という括りの中で、日本人であってもこの罪と無縁でないということが、もう少し行くと解る。分かっては大変だから、分からないうちに捨ててしまおうと思っている。
キリスト教徒というのは、自らの与り知らぬ罪を自分の罪として、自覚して生きる者のことをいうのではないだろうか。しかし、罪を自覚して生きるというのは、キリストによる救いを信じるのでなければ、為し得ない行為であると思う。



以下、リンク


● NHK経営委員 問題の二人の任命理由は…… ちなみに、国への情報公開請求で得た文書から、NHKの経営委員長には年間約620万円、経営委員には年額約495万円の「給与」が出されていることが分かった。言いたい放題で、たまに会議に出てこれだけの給与。果たしてこれが正当な報酬と言えるのか。原資は、受信料のはずだが……。(記事より抜粋)

「積極的平和主義は時々戦争そのものになる」首相のオトモダチが仰天発言
長谷川:「これこそが私が指摘した積極的平和主義の問題点だと思う。積極的平和主義は常に戦争に近いところを行く。・・。積極的平和主義とは戦地に行くことだと考えなければいけない。これが私の考える戦争と平和の重大な矛盾だ」(記事より引用)
私の目には、長谷川三千子氏は壊れかけているように見える。論理の破綻した安倍政権の辻褄合わせを無理矢理しようとして自己矛盾に陥っている。そんなものは「戦争と平和の矛盾」などでは全くないよ。安倍政権の掲げる嘘っぱちの平和主義と本物の平和主義の違いだつぅだけだ!(ミルトス)