風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

神を信じていない人の・・

 ヨブの苦悩は、四二章の六節まで、詩のような形で続く。そして突如として、四二章七節で救いが来る。神はヨブの義をみとめ、ヨブの繁栄をもとに返される。人々はヨブのもとに集り、家畜は前よりもふえ、再び十人の子供を得る。そしてヨブは百四十歳まで生きながらえる。勧善懲悪劇としては、これで完璧になるのである。
 初め、私は「ヨブ記」になど心惹かれなかったが、その理由は、この四二章七節以下の部分にあった。しかし後年、私は「ヨブ記」の四二章七節以降は、「ヨブ記」の原本ではなく、勧善懲悪の好きな読者のために、後世の聖書記者が書き加えたものだ、という説を聞いた。そしてその時以来、私は「ヨブ記」に惹かれるようになったのである。
 ヨブはこの世で悲惨な生涯を送る。いわば「身から出たサビ」ではない、まったくいわれのない不遇である。そして友人からさえも、「痛くもない腹」をさぐられる。そのような不当なむくいに対して、神は沈黙している。正義を行わない神に対してヨブは、反逆してもよさそうなものなのだが、彼は自分の義を守る。そして何一つ報いられないままに死ぬ。
 それこそが、本当の「ヨブ記」なのである。そしてそれこそが、この世の実体であり、神の沈黙と正義が行われないことこそ、人間を純粋の精神性に向わせる原動力であることを物語る。この世に隅々まで正義が行われ、人間が正しく報いられるようになったらどうなるか。人間の堕落と功利性は、目を覆うばかりになるのであろう。そこにはもはや「アガペー」的な愛もなく、純粋の善、自己犠牲による奉仕もなくなる。人間は哲学も求めず、人生について考えることもなくなるだろう。なぜなら、人間の総ての行為と意志は、正しく評価され、すべて報いられるというのだから。
 地球は人間の精神の崇高さを保つために、矛盾だらけであってもらわねば困るのである。これは逆説めくが本当である。四二章七節以降の欠落した「ヨブ記」こそ、ヨブの惨憺たる生涯とは別に、人間の最も雄々しい光栄ある生き方を見せてくれる。
 報いられるからやるのは商取引である。人間は報いられなくてもやる時に、人間を取り戻すのである。全世界を敵に廻し、ただ一人の理解者もなくとも、真理と心中しようと思う時に、現実の悲惨さを超えた尊厳をもって生を全うできるのである。
 私は、じつに「ヨブ記」の解釈を聞いた時、改めて信仰を持ちなおした、と言ってよい。私は信仰について、正面切って書こう、と思う勇気を、「ヨブ記」から与えられたのであった。(曾野綾子=著『私の中の聖書』)

この文章は、神の存在を信じていない人間の文章である。ヨブは最後、神に見えたのだ。神を呼び求めたことのない者は「ヨブ記」をこのように勝手に解釈する。神に見えたことのない者は「ヨブ記」を理解することが出来ない。

主よ、あなたを呼び求めます。わたしの岩よ わたしに対して沈黙しないでください。(詩編28:1)

この人は、神も、聖書も、信仰も、自分の納得のいくように頭の中で作り替えてしまっているのである。言ってみれば、この人が信じているのはキリスト教ではなく、「自分教」なのだ。

「この世に隅々まで正義が行われ、人間が正しく報いられるようになったらどうなるか。人間の堕落と功利性は、目を覆うばかりになるのであろう。そこにはもはや「アガペー」的な愛もなく、純粋の善、自己犠牲による奉仕もなくなる」ーこの文には、この人が、「原罪」を見落としているということが示されている。私たちはもうすでに罪に堕ちてしまっているのである。状況によって変わる愛などアガペー的な愛などではない。むしろ、罪に堕ちた人間をそれでも見捨てようとしない神の愛を知ってこそ、アガペー的な愛を自らも追い求めて生きようとするのではないか。

「地球は人間の精神の崇高さを保つために、矛盾だらけであってもらわねば困るのである」ーここまで自分の思い込み、自分の願望を力強く語れる人も珍しいと思う。

「報いられるからやるのは商取引である。人間は報いられなくてもやる時に、人間を取り戻すのである。全世界を敵に廻し、ただ一人の理解者もなくとも、真理と心中しようと思う時に、現実の悲惨さを超えた尊厳をもって生を全うできるのである」ボンヘッファー「神という作業仮説なしにこの世で生きるようにさせる神こそ、われわれが絶えずその前に立っているところの神なのだ。神の前で、神と共に、われわれは神なしに生きる」と語ったのとは似て非である。何故なら、ボンヘッファーはそこに命を懸けたからだ。しかし、この人はいつも口先だけのように見える。自分はぬくぬくとした場所に居てこういう言葉を発しているだけなのだ。そして、この人が信じているはずの神をこの人の言葉の中に見出すことが出来ない。


最近、この夫婦が発したという言葉をあるところで見かけた。その言葉は、載せればブログが汚れそうで載せたくもないと思えるような言葉であった。この夫婦には、そういった被害に遭った人達の痛みなど想像も出来ないようだ。想像力の欠如というのは小説家にとっては致命的なことではないだろうか。自分達は傷つくこともない高みに居て、まるで軽口のようにこのような言葉を発する、キリスト教徒どころか、人間だとも思えない言葉である。

キリスト教徒でない人が何を言っても、私は構わない。腹をたてることはあっても、心を痛めることはない。しかし、同じく「キリスト教徒だ」と名告っている人間がこういった言葉を恥ずかしいとも思わないで発しているかと思うと、「キリスト教徒だ」と名告るのをこちらの方がやめたくなってしまう。もう本当に嫌んなる。まぁ、私が書いていることを読んで、キリスト教徒だと名告るのをやめたくなると思っている人も居るかも知れないが・・。

「これこそが・・積極的平和主義の問題点だ」ー長谷川三千子
「それこそが、本当の「ヨブ記」なのである」ー曾野綾子

 似てる・・。


● あきれた珍保守 曽野綾子「東電に責任はない」「放射線の強い所は、じいさんばあさんを行かせればいい」
曽野 「こんなにひどい津波は見たことがない、一千年に一度の災害、と言われていますが、予想の範囲を超えていて、誰にも責任はないことをハッキリしないといけません。・・。
 私は水力発電のことしか知りませんが、建設には仕様書があって、どこまでの事態を想定するのか、決壊したら何トンの水が何分後にどこに到達するのかが考慮されています。しかし、それを考えるのは東電ではありません。そもそもの想定が甘かったなら、責任は東電ではなく設計側にあります。」
編集部 「天災には文句が言えないので、東電がスケープゴートになっている面がありますね。」

「はぁ?地震津波スケープゴートにされてんだろ!」

曽野 「もう一つ言うと、私は定年制には大賛成で、ある程度、歳がいった老人は黙ってろ、と思うんです。・・。」
「お前が黙ってろ!」ーこんなことを喚きたくなる記事(↑)。


以下、「『孤絶』超え理想主義へ」、毎日新聞11月3日掲載インタビューより抜粋引用



● ビジネス社から『平和という病』という刺撃的な本が出ました。一国平和主義、集団的自衛権、集団的自衛権の「嘘」を暴く本です。目から鱗。

● 矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』
 ・・。古関彰一氏の著書には九条は沖縄基地化とセットなのだという趣旨のことは述べられていたが、国連憲章ダンバートンオークス提案との関連には触れていない。この点、本書に教えられることは多い。
 私が調べた限りでは、憲法9条の戦争放棄条項の発案者は幣原喜重郎首相と考えるのが正しいと思う。幣原はもともと(当時は軟弱外交とののしられた)平和外交の旗手であり、パリ不戦条約制定にあたって実務にあたった人だった。戦後、連合国の中には天皇を処罰すべきだ、天皇制を廃止すべきだという強い主張があったが、幣原は天皇を守りたいと考えた。そこで天皇軍国主義のシンボルとは二度となりえないことを、憲法戦争放棄条項を入れることによって連合国に示そうと考えた。
(中略)
 著者矢部氏の主張はおおよそ次のようなもの。<米軍基地が事実上無期限に国内にあるというのは、日本が属国状態にあることを意味している。その事実を糊塗するために、さまざまな矛盾・欺瞞が生じており、憲法が有名無実化した。隠蔽してきた米国による「憲法押し付け」が表に出てきたので、右翼が国権主義の憲法に改悪しようとし、それなりの説得力を持ってきている。決定権がGHQにあった以上、日本人の民権思想が憲法に反映しているというのは説得力に欠く。今すべきことは、米軍基地は撤収させ、憲法9条第2項については、国防のための最小限の戦力を保有すること、及び集団的自衛権は行使しないことを明記すべきだ。そして、国家を制限して人権を守るという憲法をつくるべきだ。>(抜粋引用)