「歴史に学ぶ」とは、歴史の何に、どう学ぶことを言うのか。
● 説教(ルカによる福音書23:1~5) 「聖書の言葉を聴きながら」
ただこれは、神がイスラエルを捨てられたということではありません。パウロがユダヤ人の救いについて「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。」(ローマ 11:32~36)と記しているとおりです。(抜粋引用)
それは恐らく立派さに学ぶというのではないだろう。古さでもない。古さと言えば、あちらとこちらのどちらが古いかという比較が生じる。立派さにおいても同じだろう。
文化にしても伝統にしても歴史にしても、自国のものに誇りを持っている限り、比較や競争や二元論の坩堝から逃れることは出来ない。一時逃れたかに見えて、またそこへと嵌り込んでしまう。
本物の学びは、自らの愚かさを知るところからでなければ起こり得ない。
慰安婦の問題にしても、沖縄の問題にしても、誰もが問題に寄り添い解決してくれるヒーローを求めている限り終わることはない。不利益を被り、犠牲を払っても、寄り添い続けるヒーローなど存在しないのだから。
一説に、イスラエルはバビロン捕囚の中で、バビロンの創成神話に触れて、創世記を語り紡いでいったと聞く。
戦いに敗れ捕虜となって祖国を追われる惨めさの中で、「お前たちの神はどこにいるのか」という嘲りの中で、救いの神に、創造の神に出会っていったのだ。
涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て 神の御顔を仰ぐことができるのか。
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う「お前の神はどこにいる」と。
わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす 喜び歌い感謝をささげる声の中を祭りに集う人の群れと共に進み 神の家に入り、ひれ伏したことを。(詩編42:2~5)
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。(ローマの信徒への手紙7:24)
あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。(ヨハネの黙示録3:17)
讃美歌151
3 明日を待たぬいのちもて
なやみたえぬ世に住めば
たえがたくかなしかるを
今は死なぬ身となりぬ
日本の国家や社会を「実証主義」的に見ると、中国からの影響は無視できない。昨日保立道久さんからいただいた『物語の中世―神話・説話・民話の歴史学』(講談社)を読んでいると『竹取物語』に王土王民論の表現が出るという。近代になるとこの中国からの影響を払拭させようとして天皇制を創出させる。 pic.twitter.com/eQ048htE7Z
— 住友陽文 (@akisumitomo) 2018年3月18日
こういう書物(もの)見れば、「日本古来の伝統を重んじて云々」等と言うことがどれだけ馬鹿馬鹿しいことであるかが分かるだろう。 https://t.co/yunMh1KGl1
— メロメロピー (@syodainekosuke) 2018年4月2日
近代天皇制が古代以来の天皇制の伝統をいかに必死で払拭させようとしていたかという一面も見られる。王土王民論を否定して創出させようとした近代天皇制の統治の正統性は記紀神話に求められた。統治に関わる諸概念を説明するのに記紀神話に依存していることは伊藤博文『憲法義解』を読めばわかる。
— 住友陽文 (@akisumitomo) 2018年3月18日
「母性母性てうるさいねん!」ー まったくだよ!
— メロメロピー (@syodainekosuke) 2018年4月1日
これ、何の集会か分からないんだけど、「母性を強要するな」ってところには賛同する。 https://t.co/rWtBG1deXA
官邸前では、医療班の方がいらっしゃいます。抗議中体調が悪くなった方は、オレンジのゼッケンをつけている医療班、または、腕章をつけたスタッフにお声がけください。#官邸前大集合 https://t.co/PWQxebThPp
— 未来のための公共 (@public4f) 2018年3月30日