風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ネット社会を通じて・・


● 20世紀から21世紀、「ドブ河」の時代から、「波」の時代へ①
● 20世紀から21世紀、「ドブ河」の時代から、「波」の時代へ②
● 20世紀から21世紀、「ドブ河」の時代から、「波」の時代へ③

 ユージンスミスは、森永純さんが撮ったドブ側の写真を見た瞬間、そこに原爆を象徴する何かを見て、号泣したと言う。
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 後にユージンスミスが水俣病で苦しむ人々を撮り続けた時、自分が撮った水俣湾のヘドロの写真は、Jun(森永純のこと)には及ばないと言ったらしいが、森永純さんのドブ河の写真には、高度経済成長や戦争など国家の繁栄とか存続、危機回避というスローガンのもと無き物のように扱われたものたちの声にならない声が、静けさの中に渦巻いており、それは、”われわれの時代”のことだ。
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 そして写真を見る人が、現実を遠ざけてしまう写真というのは、客観的と言われる記録写真だ。現実の断片にすぎないものを歴然たる事実として突きつけておしまいの写真は、人の意識を、その断片(現実の一部)の中に囲いこんでしまう。
  すなわち、対象を損なわず、対象の存在の仕方に十分に配慮し、そのうえで写真を見る人が、その写真画像に意識を固定してしまわず、画像になっていない領域に意識が向き、そのようにして現実全体にアクセスしていく回路が開かれていく沈思のきっかけになる写真。”気づき”の起点になる写真。それが、そこに写っている対象との本当の出会いであり、対象と読者をつなぎ、責任を果たす写真である。
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 対象を損なっているかどうか、現実から遠ざかっているかどうか、本当に相手そのものと出会えているかどうかは、しばらく時間を置くことで、はっきりとしてくる。
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 ランディさんが、森永純さんのドブ河の写真を見た時、ユージンスミスと同じように衝撃を受けた。当時、彼女は、広島に通い続け、原爆のことをどう表現しようか思い悩んでいた。
 原爆のことを知れば知るほど、被爆者と関われば関わるほど、彼女は、”客観的”でもなく、”主観的”でもない表現の方法の必要性を強く感じて思い悩んでいた。6年前の春だったと思うが、深夜遅く半蔵門のバーで、そのことについて話し込んだ。そして、後日、森永純さんのドブ河の写真を見せたところ、彼女は、それらの写真にユージンスミスと同じく”原爆”を見て、その体験が表現者としてどうあるべきかを考える重大な転機となった。 
 ユージンスミスは、森永純さんの写真を見た後、しばらく森永さんと行動をともにするが、森永さんが長崎出身だとは知らなかった。森永さんは、自分が原爆の犠牲者だという表向きの意識は持っていない。
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 森永純さんは、長崎の原爆のことを、ユージンスミスの言葉のとおり、「表現していながら、それを自覚しているとは信じられない」という意識状態でとらえている。そして、ユージンスミスは、森永さんがそのことを意識してしまうことは、森永さんのユニークなビジョンに対して却って有害になりかねないと危惧をしていた。
  でも、そのような言葉がユージンスミスの口から出た時点で、意識しないようにしてもどこかで意識してしまうもの。森永さんのドブ河への取り組みは、その時点で終わった。そして、ドブ河でなく、波を、撮り続けた。「表現していながら、それを自覚しているとは信じられないある領域のこと」を心中に抱いて。
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 彼は、ドブ河の写真を見た時のように、言葉にすることで森永さんにとって有害になるものがあることを承知で言葉にしてしまうことは、もはや冒さないだろう。
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 にもかかわらず、私は、・・                                  (抜粋引用)

とても重厚な記事を上にリンクしました。どうぞリンク先に行ってご覧ください。


ブログを始めて良かったと、昨日、思った。
他の方のブログへの私のコメントを読んで、私が心を痛めていることを理解して、私自身はブログにコメント欄を設けていないにも関わらずアクセスしてそのことを伝えようとしてくださる方がいたからだ。
会ったこともないのに理解しようとしてくれる人がいるということを、ネット上で知ることが出来た。

以下(↓)にリンクしたような写真、私は、これはこれでいいなと思っています。


● 今日、まだ微笑んでいない方に贈る(世界平和!?の)写真

● カエルがヘビの体に乗って遊んでいるぞ!?ヘビとカエルの不確かな関係(インドネシア)
狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。その日が来れば エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。(イザヤ書11:6~10)