風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ユダについての物思いー(葛原妙子の短歌とキリスト教で)

ユダについて書いた「葛原妙子38」を読んだ若いキリスト者からこんな疑問を投げかけられた。
神様はどうしてユダにこんな辛い務めを負わせるような形で私たちの罪の贖いをされたのか?
キリストのユダへの憐れみは分かる。けれど、それならもっと違うやり方で人間の罪を赦すことが出来なかったのか?

私は、聖書を読むときは二つの視点を持つ必要があると思う。一つは、「人類とは、罪に堕ちた存在なのだ」という視点。そしてもう一つは、「神は、その罪に堕ちた人間の罪を明らかにされるお方であり、尚且つ、そこから救おうとされるお方である」という視点である。
ユダはお金に困ってはいなかっただろう。それは「葛原妙子38」で書いた通り、私自身もそう思っている。けれど、私たちの心の隙間にサタンが入るとき、私たちはお金に困っていなくても拝金主義に陥るのである。それは、私たち人類が罪に堕ちた存在であるからだ。
そしてキリストの十字架というのは、そのような人間のあらゆる罪が露呈されてくる場であるからだ、としか今の私には言うことが出来ない。

心の中が空洞になっていると、そこにサタンが入り込むとどこかで見たような聞いたような気がするのだが、どこでだったろうか?

     イェスさまわたしの
イェスさまわたしのまずしいこころにおやどりください、いつまでもながく。
だれよりもきよいこのお客様のおそばにいるのはどんなによいでしょう。
イェスさまわたしのひとつのねがいはあなたのしもべになることだけです。
                 (「教会学校さんびか」(聖文舎)より)